第3話 二月某日・冬の一日

文字数 1,831文字

 先日、何も文が書けなかった。なんかもう死にそうだったのである。(ホントかネ)
 もうこの世界ぜーんぶ厭になった。
 ── すみません、今品川駅にいるんですけれど…ちょっと吐いてしまって… どうも仕事できそうにないんで、今日休ませてもらえませんか。
 社長の奥さんは私の弱々しい声を聞いて、心配そうに「お大事に」と言って下さった。
 仮病である。嘘である。
 何週間も前からゴホゴホ咳をしていたから、一緒に仕事をしていた人達は、私が本当に病気になったと思ったらしい。
 電話を切って、また電車に乗り池袋駅で降り、開店したてのパチンコ屋に入った。そこに、閉店までいることになる。
 十三時間のあいだに、一枚が二枚、二枚が四枚、と万札が飛んでいった。
 私の仕事は貯水槽の清掃である。ビルやマンションの屋上にある、丸かったり四角かったりする、あのタンク。あれが貯水槽である。
 北風に震えながら貯水槽の天井を洗っていた自分。塩素で涙を流しながら、水槽の汚れをおとしていた自分。毎日毎日働いて稼いだ日銭が、玉となってカス穴へ落ちていく。心臓の鼓動が確実に聞こえる。すこし汗ばみ、気持ち悪くなってきて、涙ぐむ。
 いったい何をやっているのか。どうしてこんな人間になってしまったのだろう。

 ── ああ、いいや。どうせ死ぬんだもんな。今夜あのマンションから飛び降りるんだ。ヨシ、イイゾイイゾ、なくせなくせ。
 金を消していくことが、自分にとってふさわしい行為に思えた。パチンコ屋で、私は浅はかで駄目な人間である自分自身を、そのとおりに体現できていた。
 初めてセブンが揃った時は、もう四万円が失せていた。もう今日はやめといた方がいい。これから取り返すことは、まず無理だ。しかし、ほかにどこへ行けばいいのか。成人映画館か。ホモがいるといやだな(以前、つきまとわれたことがある)。個室ビデオ屋か。やることはみんな同じだしな。
 そう考えても、百円玉がきれると、また両替機で札をくずしている。
 もう死ぬんだオレは、と想う。すると苦しくもなくなり、動悸も失せた。何もかも、どうでもよくなった。自分には何もないのだと感じることが、妙に心地良かった。
 金という存在自体が、一種のギャンブルのようなものではないか。金なんて、目的を達するための手段にすぎぬ。生活であり旅であり酒であり趣味であり、それらを成り立たせるための媒介でしかない。目的そのものにはなりえない。エバるなよ、金。
 ほんとうの財産というのは、金に代えられないものを言う筈だ。

 なのに私は金そのものが目的であるかのごとく、働いてきてしまっていた。忙しすぎた。ここしばらく、仕事内容もハードだった。家に帰っても何もできぬ。文を書こうと思っても気がつけば睡眠時間が気になって、明日のために寝てしまう。疲れてるから、またすぐに眠れるんだな、これが。何のために生きてるのか分かりゃせん。
 ── 自分のためか。そりゃそうだわな。
 しかし、働きづくしの生活がいやで、十六歳のとき、私は定時制に行きたくなったんだよナ。
 ── 変わっとらんな、全然。
「蛍の光」が流れはじめたので店を出た。九万あった財布の中には、一万しか残っていない。電話が目に入った。妻と子供の顔が現実味を帯びて目に浮かんだ。
 ── 声を聞いてから死のうか。
 なにやら大変だったらしい。社長から、そしていつもペアを組んでいる親方から、何度も電話がきたという。私がいないと仕事にならない現場があるために、動けるのかどうかを知りたかったのだ。
 社長が心配するのは自社の利益であり、私の仮病ではない。社長にとって私はその利益目的のための仕事人、カラダなどはどうだってよいのは、当たり前だ。この世の人間関係、すべからく金か。
 そんな自分が、またそこで金稼ぎをする。
 循環してるよナ。ぐるぐる回り尽くしたんじゃないのかね。
 妻には、迷惑をかけっぱなしである。私は、もうすぐ死ぬことを前提に生きているから、ここまで迷惑をかけると、もう立派に死ねるような気になってくる。
 翌日の夕方、社長からの電話を勢いよく取った。
 ── ハイ、もう辞めさせていただきます。欠勤したのは、仮病です、仮病。お世話になりました、どうもありがとうございましたッ。
 そう言うはずが、
「すみません、ご迷惑おかけしました。月曜から、這ってでも行きます」
 とたんに私は明るくなり、死にたい気持ちもモヤモヤも簡単に吹っ切れてしまった。ああ。
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