第23話 誰にも読まれずとも
文字数 2,087文字
いままで、人さまに、読んでいただくことを前提に、書いてきましたが、べつに、そんなに読まれなくてもいいのではないかと思うようになり、しかし、読まれないのを前提に書くというのも、何なのだろうと思い、そもそも、何のために、人は言葉を発するに至ったのかと考えるに至ったのであります。
手紙というのは、一個人に対し、一個人が言いたいことを持ち、その思いから、書くのであります。伝えたいことがあるから、書くのであります。しかし、べつに、何か言いたいことがあるから書いているのでも、ないように思えている、今日この頃です。
ただ、自分の漠とした「思い」らしきものを、文章、あるいは言葉という形にすると、その型に収まるような気がして、収まらないと不安になるために、言葉を発していると思われます。
とりとめのない、水のような心の内を、いろいろな形をしたコップに流し込むような行為。あるいは、水が、意思を持たぬままに地の上を這い、その高低に従って、一定の形に収まる。言葉に表現するというのは、そんなものではないか、と思えます。
表現、というと、いかにも主体的な、積極的な行為のように見られますが、実は内向的な、消極的なものなのではないでしょうか。
私のまわりに、現実に人がいますが、その人達は、確かにそこにいるのですが、私の中にも、その人達がいるのです。私の中の誰かに向かって、ものを言う、または書くことが、「表現する」ことの、実体ではないかと思うのです。
想像が基本なのです。こいつは、こういう人だよな、とのイメージがあり、それに合わせることによって、ひとづきあいというのは、成り立っているように思うのです。つまり、自分の中にいる彼と、現実にいる彼と、同一人物であるはずなのですが、この二人の彼とつきあうということです。
たとえば私、仕事をしている時は、なにしろ頑張って働いていますから、仕事中の、人への接し方も、ハキハキと大きな声で受け答えています。ですから、「ああ、オダくんは、サッパリした性格の、はっきりものを言う人なんだな」と思われがちな感じ。
それも、想像でしかありませんから、実際には、どう思われているのか、確信できないのですが、人と一緒にいる時、微妙な空気から、何か分かる気がするんです。
仕事のない休日に、同じ職場の人に会うと、「あれ、オダくんって、こんな人だったっけ?」と、意外の感じが、伝わってくるような気がすることも、しばしば。
この人の、「オダくん」のイメージに添えられなくて、申し訳なく感じる一方で、これもオレなんだよ、と知らしめたような気もして、秋風のような自己満足めいた気分になることも、しばしば。
すると、人とつきあうことは、演技することなのかな、と思ったりします。自分の役は、自分の中にある、相手の「私」へのイメージに同化することであります。これを為すことによって、「裏切り」だとか「幻滅」から免除された、人間関係の安定が、築き上げられるのではないでしょうか。
実際に会っている時は、相手の顔や、うなずき、首かしげなどから、相手の気持ちのおおよその見当がつきますが、これが、手紙となると、相手の反応が、分かりません。まさに、「私の中のあなた」に向かって、書くのです。
読む相手のことを、あまりに気にして書いても、その相手は、「私」の中にいるのですから、どんなに楽しませようと、サービス精神旺盛で書いても、その言葉は結局、「私」自身に向けられています。
手紙というのは、すでに相手と自分との間に、何らかの関係ができあがっているのですから、何も、選りすぐって言葉をつくろわなくても、いいのです。
この通信も、いまや不登校に関する活動でなく、個人通信のようになっています。ここに書いているものとして、これを目にする人、あなた・あなた・あなたに(「私」の中の)、まっすぐ向き合えればと思います。あれこれ勘繰ったり、打算したり、したくないなと思います。
言葉とか文とか、まるで、実在する相手に向かって発しているかのようですが、実際、現実にそこにいる相手に向かって発しているのでありますが、もうひとり、その、「自分の中にいる相手」に向かって発しているのだということも、忘れずにいたいものです。そして、その「私」の中にいる誰かは、「私」自身であるということも。
─── こんなふうに、ただ、とりとめのないことを書いて、それでいいのではないか、と半分本気で思えるようになりました。
読んでほしい、読んでほしいと欲するのは、滑稽であります。
ほんとうに生きるためにマッチを売った、マッチ売りの少女なら、買って下さい、買って下さいも分かりますが、ここはT自動車という大企業の独身寮、私は、べつに、働いて、送金して、のほほんと生きて行ける身分なのです。
私がこれを書くのは、ただ働いて寝るだけの生活では、足りないからです。
働いて、金稼いで、食って寝て、なんでそれだけで満足できないんだろうねえ。
とにかくもうすぐ、ゴールデンウィーク。また、お会いできる日を、楽しみにしています。
手紙というのは、一個人に対し、一個人が言いたいことを持ち、その思いから、書くのであります。伝えたいことがあるから、書くのであります。しかし、べつに、何か言いたいことがあるから書いているのでも、ないように思えている、今日この頃です。
ただ、自分の漠とした「思い」らしきものを、文章、あるいは言葉という形にすると、その型に収まるような気がして、収まらないと不安になるために、言葉を発していると思われます。
とりとめのない、水のような心の内を、いろいろな形をしたコップに流し込むような行為。あるいは、水が、意思を持たぬままに地の上を這い、その高低に従って、一定の形に収まる。言葉に表現するというのは、そんなものではないか、と思えます。
表現、というと、いかにも主体的な、積極的な行為のように見られますが、実は内向的な、消極的なものなのではないでしょうか。
私のまわりに、現実に人がいますが、その人達は、確かにそこにいるのですが、私の中にも、その人達がいるのです。私の中の誰かに向かって、ものを言う、または書くことが、「表現する」ことの、実体ではないかと思うのです。
想像が基本なのです。こいつは、こういう人だよな、とのイメージがあり、それに合わせることによって、ひとづきあいというのは、成り立っているように思うのです。つまり、自分の中にいる彼と、現実にいる彼と、同一人物であるはずなのですが、この二人の彼とつきあうということです。
たとえば私、仕事をしている時は、なにしろ頑張って働いていますから、仕事中の、人への接し方も、ハキハキと大きな声で受け答えています。ですから、「ああ、オダくんは、サッパリした性格の、はっきりものを言う人なんだな」と思われがちな感じ。
それも、想像でしかありませんから、実際には、どう思われているのか、確信できないのですが、人と一緒にいる時、微妙な空気から、何か分かる気がするんです。
仕事のない休日に、同じ職場の人に会うと、「あれ、オダくんって、こんな人だったっけ?」と、意外の感じが、伝わってくるような気がすることも、しばしば。
この人の、「オダくん」のイメージに添えられなくて、申し訳なく感じる一方で、これもオレなんだよ、と知らしめたような気もして、秋風のような自己満足めいた気分になることも、しばしば。
すると、人とつきあうことは、演技することなのかな、と思ったりします。自分の役は、自分の中にある、相手の「私」へのイメージに同化することであります。これを為すことによって、「裏切り」だとか「幻滅」から免除された、人間関係の安定が、築き上げられるのではないでしょうか。
実際に会っている時は、相手の顔や、うなずき、首かしげなどから、相手の気持ちのおおよその見当がつきますが、これが、手紙となると、相手の反応が、分かりません。まさに、「私の中のあなた」に向かって、書くのです。
読む相手のことを、あまりに気にして書いても、その相手は、「私」の中にいるのですから、どんなに楽しませようと、サービス精神旺盛で書いても、その言葉は結局、「私」自身に向けられています。
手紙というのは、すでに相手と自分との間に、何らかの関係ができあがっているのですから、何も、選りすぐって言葉をつくろわなくても、いいのです。
この通信も、いまや不登校に関する活動でなく、個人通信のようになっています。ここに書いているものとして、これを目にする人、あなた・あなた・あなたに(「私」の中の)、まっすぐ向き合えればと思います。あれこれ勘繰ったり、打算したり、したくないなと思います。
言葉とか文とか、まるで、実在する相手に向かって発しているかのようですが、実際、現実にそこにいる相手に向かって発しているのでありますが、もうひとり、その、「自分の中にいる相手」に向かって発しているのだということも、忘れずにいたいものです。そして、その「私」の中にいる誰かは、「私」自身であるということも。
─── こんなふうに、ただ、とりとめのないことを書いて、それでいいのではないか、と半分本気で思えるようになりました。
読んでほしい、読んでほしいと欲するのは、滑稽であります。
ほんとうに生きるためにマッチを売った、マッチ売りの少女なら、買って下さい、買って下さいも分かりますが、ここはT自動車という大企業の独身寮、私は、べつに、働いて、送金して、のほほんと生きて行ける身分なのです。
私がこれを書くのは、ただ働いて寝るだけの生活では、足りないからです。
働いて、金稼いで、食って寝て、なんでそれだけで満足できないんだろうねえ。
とにかくもうすぐ、ゴールデンウィーク。また、お会いできる日を、楽しみにしています。