第6話 責任とは?

文字数 1,442文字

 とある教育関係の集会の場で自分の不登校体験を話し終え、参加者と対話する時間の中で、「責任」という言葉が大きなキーワードになったことがある。
 学校に行かず、高校・大学を中退、会社も辞め…ということで、
「あなたは自由に生きてきた。その中で、責任をどう取ってきたのか」
 と、参加者から質問されたのだった。
 責任。最初は、この質問の意味がよく分からず、そして今もよく分かっていない。なにしろ、その責任というのが、どういうものであるのか、よく分からない。と、その場で私は正直に聞いて、相手も答えて下さっていたはずなのに、その答えを覚えていない有り様なのだ。他の参加者が私の代わりにいろいろ話してくれたので、助かったのだが…。
 私が今まで「自由」に生きてきたとして、その責任をどう取ってきたか、と問われた時、何も言葉が浮かばなかった。
 世代の違い。
 これですべてカタがつく問題であった気もする。
 わたしなどより上の世代の人達は、ほとんどが「分業世代」だったように思うからだ。家のことは全て女の仕事、男は何処かで働いて金を稼ぎ、家なんか買っちゃって、子どもは学校に任せる… といった具合に。

 ─── 学校に行っていなかった小学生時代、私のせいで家庭が滅茶苦茶になっている、という「責任」を私は感じていた。それで私はどうしたかといえば、自殺を考えた。この「責任」を果たすために学校に行くよりは、死んだほうが良いと思ったからだ。
 それから中学を卒業し、働きはじめて二年後、大検予備校に通いたくなる。職場の長に「いま辞められたら困る」と言われていたにも関わらず、私はさっさと辞めて予備校に行きはじめた。
 迷惑な話である。たしかに勝手気ままに生きてきたような気もしてくる。
 進学塾の講師の仕事や、予備校の代〇木ゼミナールと河〇塾のチューター(生徒の世話役)の仕事も、まったく私の一身(心?)上の都合でかってに辞めた。貯水槽の仕事を辞め、岐阜県土岐市のスーパーで正社員となり、退職し、現在、一度辞めた貯水槽にまた戻っている。
 その、責任を取る、という言葉から想像するに、なんだかとても大変そうなイメージで、できれば避けて通りたいものだと考える。
 実際に貯水槽の親方になって高給取って生きていく道もある。しかしそう決めてしまうと、責任のある立場となり、なかなかその道から外れなくなってしまう。
 仕事に責任をもつのがいやなのではない。辞められなくなるのが恐怖なのだ。
 金稼ぎに疲れ果てるのはいやだ。金の価値などない。金以外で携わる、人との関係が、何よりだいじなものだ。「とまりぎ」に力を注ぎたいし、もっといろいろな人たちと交流していきたい。

 要するに、過去も現在も、私は好きで仕事をしているわけではない、ということだ。好きな仕事をやるときに、私は全身全霊の責任感をもって挑むだろう。好きでもない仕事に、命などかけれっこない。
 責任とは、客観的なものではない。社会的な義務を果たすものではない。あくまでも主体的に、命をなげうってでも守りたい対象にぶちあたったとき、責任が芽生えてくる。芽生えざるをえない。
 それ以外の責任というのは、自己欺瞞の上に成り立ち、社会的な立場等、第三者の目を介したものに自分を同化させ、捏造めいてできあがるものではなかろうか。
 分業世代の人達は、おそらく裕福な日本をつくった。その上に生きてきた私は、モノがあふれている中では、モノには、さしたる興味をもてない。もっと深遠なものが欲しい。
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