第26話 陽春

文字数 1,453文字

 どうにも、蒸す。
 まだ五月だというのに、やたら蒸し暑い。まるで梅雨のようである。
 外は雨が降っている。たしか、一昨日もその前も雨降りだった。
 空気がなまめかしくまどろんでいる。この世に生まれた以上、どこにも逃げられないような気になってくる。
 寝汗をかいて目が覚めた。
 日本は、黄金週間も終わり、いつもの日常に戻ったようだ。
 煙草を吸う。葉っぱも、湿気を多く含んでいるようで、重い。ドビンのようなガラス瓶に入った4ℓのワインを、マグカップに注いで、飲む。煙草を吸う。ワインを飲む。
 誰もいない。
 部屋の中は、見渡す限り私ひとりである。
 共同便所へ行く。小便をする。部屋に戻る。廊下を歩く人のスリッパの音と、何かぶつぶつ言う独り言の音が聞こえてくる。
 妻子を実家に残し、私はひとりT自動車に出稼ぎに来ている。夜勤と昼勤を一週間ごとに繰り返す。
 最近の生活パターン。
 朝六時半から夕方三時十五分までの勤務の場合。
 夕方四時半くらいに帰寮して、風呂に入って、ビールなんか飲みながら誰かに手紙を書く。あるいは、本を読む。あるいは、FMを聞き、CDを聴く。テレビを見て、けらけら笑ったりもする。テレビに笑わされてしまった自分に、ふっと腹立たしさを感じたりもする。
 そのうち、ころりと寝てしまう。あっけなく眠り、目が覚めたときは夜中である。
 もそもそ起き上がって冷蔵庫からカルシウム飲料などを取り出し、飲んで、煙草を吸う。気がつくとワインを飲んでいて、ワープロの前でカーソルを動かしている。

 むかしむかしに私と接していた人達のことを、よく思い出す。幼稚園の頃、活発に動いていたノギ君は、今頃何をしているのだろうか。大きな瞳でじっと私を見つめていたクボ君は、今も変わらぬ大きな瞳で誰かを見ているのだろうか。
 小学生の頃、道端で偶然会い、「どこ行くの?」と笑顔で話しかけてくれた同級生のイマイさんは、どうしているのだろう。しっかり、主婦なんかしているのだろうか。
 「サル」というあだ名だったスズキ君は、今頃バリバリの会社員になっているのだろうな、きっと。
「体は弱いけど、学級委員にいいと思います」と、学級会のとき先生に私を推してくれたイデ君は、五、六年前、きりりとネクタイ締めて駅へ歩いていったっけ。
 あの、家庭科の時間に私を子馬鹿にした女教師は、今もあのヒステリックな目線で歳をとっているのかな。
 中学時代の恋人も、結婚なんかして、元気にやってるんだろうな。
 よくいじめられて泣いていたホンダ君は、いつか入ったパチンコ屋の従業員になっていて、私はバツが悪くて隠れるように玉を打っていた。
 思い出したところで、別にどうということはないことばかり、思い出している。なんで昔のことばかり、しかも思い出されている当人は、私のことなどとっくに忘れているはずなのに。
 思い出すのだから、仕方ない。
 こうして、仕方のないことを、キーボードに打って画面に浮かびあがる言葉を見て、ワインを飲み煙草を吸ううちに、朝になる。
 顔を洗い、髭を剃り、通勤バスに向かい、乗る。工場に着き、しかるべき仕事をし、夕方になり、また夜になる。
 しかし、いちばん多く思い出すのは、離ればなれに暮らしている、私の「家族」、妻と子のいる、暖かかった、冬の居間。

「社会は、家庭から変わっていく」と言っていた、精神科医のことも思い出す。不登校していた私を診てくれた、Wさん。いつかテレビで、しっかりそう言っていた。
 しかし、私は家庭を変えるどころか、壊してしまった。
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