第5話 パチンコと「学校拒否体験」
文字数 2,829文字
そうとう、パチンコにのめり込んでいた時期がある。
二十歳の頃からの約十年間で、大袈裟でなく、地球一周旅行分の金額は、パチンコ屋に投資したと思われる。
ことに、この三、四年のあいだは、金が欲しくて、やっていた。金が欲しくて、よけいに金を失くしていたのである。
私はどうも、本人はそう思っていないのだが、金づかいが荒いほうらしい。
妻のくれるおこづかいでは、足りないのである。
ビールを、飲みたかった。そのための、つまみも買いたかった。
妻に、好きなお菓子も買って帰りたかったし、子供にも、絵本か何か買ってやりたかった。
ビールとお菓子と、子供の遊び道具があれば、家族は笑顔に包まれ、なにより私が、気持ち良く酔っぱらえるはずだった。
金がなくては、かなえられぬ夢である。
仕事帰りに立ち寄っては負け、ああ金が無くなって死にたくなって、でも死ぬことができず家に帰って寝て、朝になり仕方なく起きて仕事に行き、その帰りにまたパチンコ屋に入り、今日こそは今日こそはと大勝利を夢見て、金が尽きてまた死にたくなるという、救いようのない生活をしていた。
家の生活費を盗んで、やっていた。
救いようがない、というのが、唯一の救いであるようだった。
自分のいのちを賭けて、セブンがくるまでひたすら金を費やし、情熱をかけて燃えることができたのも、自分が救われていなかったからこそ、できたことだった。
金、という現実を賭け、現実に金がどんどんなくなっていくのをまのあたりにすると、ますます熱くなることができていた。
これほどまでに熱中できるものは、パチンコのほかに何もなかった。
「パチンコ屋のトイレで首吊って死んだ人がいる」
そんな話を聞くと、ああ自分もそうなるんだろうな、と思った。
これからも生きていくんだという自分と、もう今日で死ぬんだという自分の、ちょうどまんなかで、現実の私がゆらゆらしながらパチンコ玉を打っていた。
こんなギャンブルなどに生活費をかける自分が、ほんとうにどうしようもない人間のように思われた。
はやく仕事が終わった日など、まっすぐ帰って夕食でもつくり、子供と一緒に遊び、テレビでも見て笑って、風呂に入れば、それでもう一家団欒みたいであった。
そんな構図が目にみえると、なぜかもう終わった気分になるのである。一見、幸福そうな家庭というものに、安住してハマッてしまいそうで、そうなる自分が怖かった。たまにならいいのだが、まっすぐ帰り続けると、毎日そうなってしまいそうだった。
そして、こんな自分を殺すには、絶対的なきっかけが必要だった。
家庭にハマらず、ギャンブルにハマッた私には、パチンコで文無しになって死ぬのが、ふさわしい。非の打ちどころのない死に方で、これしかないと思っていた。
いっぽうで、私の登校拒否体験、などといって、何十人か何百人の前で話をする、パネラーめいたこともやっていたりした。
毎月第四日曜には「とまりぎ」もあった。当時の生活からすると、場を開いているどころではなかったのだが、今月もやりますよというお知らせを、来るかもしれない人たちに向けて郵送しなければならなかった。
しなければならなかった、というより、いちどだけお知らせを送らなかった月があり、その月は誰も来なかったのだった。
いくら第四日曜は必ずやっています、といっても、お知らせは出した方がいいと思った。
でも単なる知らせだけでは、つまらない。
「楠原くんは、自分の体験を書くといい」
森さんにそう言われたこともあって、自分の体験話を、知らせにのっけていこう、という気になった。
五年くらい前に、自分の登校拒否体験をワープロし、気になっていた人達に、個人通信というかたちで送ってはいた。
つづきは書きたいときに書いていこうと思っていたら、なかなか書こうとしない自分がいたので、いっそ「毎月ひとに読んでもらうもの」という義務的な作業にしてしまえば、書かざるをえなくなって書くのではないか、と考えた。
登校拒否という接点があって知り合えた人達なのだから、興味をもって読んでくれるのではないか。
小・中学の話は、その年頃の子どもをかかえた親が多いはずだから、きっとよく読んでもらえるはずである。
定時制高校の話は、いまもイジメがあり続けているのだから、親でない人も、関心をもって読んでくれるかもしれない。
私の稚拙な文を、こんな人がこんな感じで読むんだろうな、と、読み手を意識しながら、正直に書いていた。
原稿用紙にして百枚をこえ、大学時代の私にさしかかったとき、はたと困った。
どんな人が、どんな関心をもって、こんな大学の頃の私の話なんか読むのだろう?
大学、というと、およそ登校拒否とは無縁の世界である。もはやこれは、読む人が必要としない内容になっているのではなかろうか。
そう思うと、自分の体験話など、わざわざつくって、郵送までする必要が、ないような気がしてきた。
つまらない。
ヒトが必要としないと、自分についての言葉を吐けないことが。
読んでくれるヒトがいる、それはありがたい、けれど、コビてはいけない!
「読んでくれるヒト像」が私の中にないと、言葉が出せないようでは、いけない!
それは、人の目を自分の目にすり替えながら生きていくことと、何ら変わりない。借りものの価値基準、借りものの自分でおわる。
私の中の自分とホントウに向き合って、文をつくっていきたいと思う。
そこからうまれてくる言葉が、ほんとうの言葉だ。
そうしないと、私はつづけていくことができない。
さて、この文章は何をいいたいのかというと、「私の学校拒否体験」を書いているうちに、私のギャンブル熱は去ってしまった、ということである。
森さんから言われて、その気になったのと、もうほとほとパチンコがいやになっていた時期が、タイミングよくフィットしたのかもしれない。単なる偶然ともいえる。
ただ、自分について、文という形にして掘り下げて掘り下げていこうとする時期に、パチンコ熱が冷めていったのは、事実である。
そこで気がついた。
自分そのものに対する熱情を、どんな形で具体的にあらわすか、その手段を知らず、知ろうともせず、てっとり早くパチンコという外部の対象に向けていたことに。
これが私のギャンブル熱病の正体である。ほかにも、酒・煙草・女と、いろいろある。
しかし私は、わけのわからぬ「自分」について、あれこれ思い巡らすエネルギーを「パチンコ」に向けて、うまくごまかそうとしていたのである。
そのまま逃げきることができず、ごまかしきれず、そして死ぬこともできなかった。
そうして、私のもっていた本能的ないちばんの関心の対象・自分自身に還ってきた。還ってくるまで十年近い時間が、私には必要だった。
「パチンコで負けていたときのほうが、おもしろい文章書いてたわね」
と、妻が言うのを、黙って聞いている今日この頃である。
二十歳の頃からの約十年間で、大袈裟でなく、地球一周旅行分の金額は、パチンコ屋に投資したと思われる。
ことに、この三、四年のあいだは、金が欲しくて、やっていた。金が欲しくて、よけいに金を失くしていたのである。
私はどうも、本人はそう思っていないのだが、金づかいが荒いほうらしい。
妻のくれるおこづかいでは、足りないのである。
ビールを、飲みたかった。そのための、つまみも買いたかった。
妻に、好きなお菓子も買って帰りたかったし、子供にも、絵本か何か買ってやりたかった。
ビールとお菓子と、子供の遊び道具があれば、家族は笑顔に包まれ、なにより私が、気持ち良く酔っぱらえるはずだった。
金がなくては、かなえられぬ夢である。
仕事帰りに立ち寄っては負け、ああ金が無くなって死にたくなって、でも死ぬことができず家に帰って寝て、朝になり仕方なく起きて仕事に行き、その帰りにまたパチンコ屋に入り、今日こそは今日こそはと大勝利を夢見て、金が尽きてまた死にたくなるという、救いようのない生活をしていた。
家の生活費を盗んで、やっていた。
救いようがない、というのが、唯一の救いであるようだった。
自分のいのちを賭けて、セブンがくるまでひたすら金を費やし、情熱をかけて燃えることができたのも、自分が救われていなかったからこそ、できたことだった。
金、という現実を賭け、現実に金がどんどんなくなっていくのをまのあたりにすると、ますます熱くなることができていた。
これほどまでに熱中できるものは、パチンコのほかに何もなかった。
「パチンコ屋のトイレで首吊って死んだ人がいる」
そんな話を聞くと、ああ自分もそうなるんだろうな、と思った。
これからも生きていくんだという自分と、もう今日で死ぬんだという自分の、ちょうどまんなかで、現実の私がゆらゆらしながらパチンコ玉を打っていた。
こんなギャンブルなどに生活費をかける自分が、ほんとうにどうしようもない人間のように思われた。
はやく仕事が終わった日など、まっすぐ帰って夕食でもつくり、子供と一緒に遊び、テレビでも見て笑って、風呂に入れば、それでもう一家団欒みたいであった。
そんな構図が目にみえると、なぜかもう終わった気分になるのである。一見、幸福そうな家庭というものに、安住してハマッてしまいそうで、そうなる自分が怖かった。たまにならいいのだが、まっすぐ帰り続けると、毎日そうなってしまいそうだった。
そして、こんな自分を殺すには、絶対的なきっかけが必要だった。
家庭にハマらず、ギャンブルにハマッた私には、パチンコで文無しになって死ぬのが、ふさわしい。非の打ちどころのない死に方で、これしかないと思っていた。
いっぽうで、私の登校拒否体験、などといって、何十人か何百人の前で話をする、パネラーめいたこともやっていたりした。
毎月第四日曜には「とまりぎ」もあった。当時の生活からすると、場を開いているどころではなかったのだが、今月もやりますよというお知らせを、来るかもしれない人たちに向けて郵送しなければならなかった。
しなければならなかった、というより、いちどだけお知らせを送らなかった月があり、その月は誰も来なかったのだった。
いくら第四日曜は必ずやっています、といっても、お知らせは出した方がいいと思った。
でも単なる知らせだけでは、つまらない。
「楠原くんは、自分の体験を書くといい」
森さんにそう言われたこともあって、自分の体験話を、知らせにのっけていこう、という気になった。
五年くらい前に、自分の登校拒否体験をワープロし、気になっていた人達に、個人通信というかたちで送ってはいた。
つづきは書きたいときに書いていこうと思っていたら、なかなか書こうとしない自分がいたので、いっそ「毎月ひとに読んでもらうもの」という義務的な作業にしてしまえば、書かざるをえなくなって書くのではないか、と考えた。
登校拒否という接点があって知り合えた人達なのだから、興味をもって読んでくれるのではないか。
小・中学の話は、その年頃の子どもをかかえた親が多いはずだから、きっとよく読んでもらえるはずである。
定時制高校の話は、いまもイジメがあり続けているのだから、親でない人も、関心をもって読んでくれるかもしれない。
私の稚拙な文を、こんな人がこんな感じで読むんだろうな、と、読み手を意識しながら、正直に書いていた。
原稿用紙にして百枚をこえ、大学時代の私にさしかかったとき、はたと困った。
どんな人が、どんな関心をもって、こんな大学の頃の私の話なんか読むのだろう?
大学、というと、およそ登校拒否とは無縁の世界である。もはやこれは、読む人が必要としない内容になっているのではなかろうか。
そう思うと、自分の体験話など、わざわざつくって、郵送までする必要が、ないような気がしてきた。
つまらない。
ヒトが必要としないと、自分についての言葉を吐けないことが。
読んでくれるヒトがいる、それはありがたい、けれど、コビてはいけない!
「読んでくれるヒト像」が私の中にないと、言葉が出せないようでは、いけない!
それは、人の目を自分の目にすり替えながら生きていくことと、何ら変わりない。借りものの価値基準、借りものの自分でおわる。
私の中の自分とホントウに向き合って、文をつくっていきたいと思う。
そこからうまれてくる言葉が、ほんとうの言葉だ。
そうしないと、私はつづけていくことができない。
さて、この文章は何をいいたいのかというと、「私の学校拒否体験」を書いているうちに、私のギャンブル熱は去ってしまった、ということである。
森さんから言われて、その気になったのと、もうほとほとパチンコがいやになっていた時期が、タイミングよくフィットしたのかもしれない。単なる偶然ともいえる。
ただ、自分について、文という形にして掘り下げて掘り下げていこうとする時期に、パチンコ熱が冷めていったのは、事実である。
そこで気がついた。
自分そのものに対する熱情を、どんな形で具体的にあらわすか、その手段を知らず、知ろうともせず、てっとり早くパチンコという外部の対象に向けていたことに。
これが私のギャンブル熱病の正体である。ほかにも、酒・煙草・女と、いろいろある。
しかし私は、わけのわからぬ「自分」について、あれこれ思い巡らすエネルギーを「パチンコ」に向けて、うまくごまかそうとしていたのである。
そのまま逃げきることができず、ごまかしきれず、そして死ぬこともできなかった。
そうして、私のもっていた本能的ないちばんの関心の対象・自分自身に還ってきた。還ってくるまで十年近い時間が、私には必要だった。
「パチンコで負けていたときのほうが、おもしろい文章書いてたわね」
と、妻が言うのを、黙って聞いている今日この頃である。