第9話 お知らせ・報告等
文字数 2,806文字
「とまりぎ」。
記念すべき(?)第一回。
初めて顔を会わす女性二名、今まで何回も会っていた男女一人ずつ、計四名が、わざわざ足を運んでくれた。
誰も来ないんじゃないか、と思っていた私にとって、「嬉しい誤算」というスポーツ新聞の大見出しである。
なぜ私はこんな集いを求めたのだろうか。改めて考えてみるに、何かしたい、と普段から思っていたフシはある。
何もしないでいたい、と思っていたフシもある(こっちのフシの方が大きいだろうナ)。ただアソんだりシゴトしたり、なんかやってるわけだけど、「人との接触」ということに関して、何もしないというのは─── 自分の小部屋に浸って安住しちゃいそうだった。
義理やタテマエでつきあう人間関係に慣れてしまうのは恐ろしい、とも思っていた。
たまたま私には、学校に行かなかった私がいて、なんとなく同じように、公教育に疑問を抱いている人との接触の場を持ちたい、とは、ずっと思っていた。
また、今、とても生きにくいと実感させられている。
何かに(ほとんど会社だろうが)所属していないと、生きにくい。そう感じるのは、私の小心ゆえなのだろうか。
学校には、みんないやいや行っているものだという。その訓練に鍛えられた人は、会社に通うことは、たいした苦痛ではないのだろうか。
私にとって学校は、社会に出てから困らないようにしてくれる場所のように映る。企業にとって(自分にとっても?)困らないように。── でも本当にそうなのだろうか。
… なぜ集いの場を求めたのか。結論。
結局、ヒトとの接触なくして、ジブンのセイチョーはナイ、ということダ。── そんなこたあ、ないだろう。
まあ、とりあえず、そう思うンだ。(人によるよナ)
今月のお知らせ
「セーラームーンに於ける現代性」
セーラー服美少女戦士・セーラームーンをご存知だろうか。
こどもはなぜかアニメ好きで、うちの娘もクレヨンしんちゃん・ドラゴンボールのTVのために曜日を覚えた。
毎週土曜夜七時は、10チャンネルでセーラームーンである。
普遍的といえる正義対悪のアニメ図式に則ったものではある。が、いままで不覚にも三、四度、涙がこぼれそうになる場面に逢着してしまった。
一緒に見ていた者がいなかったら、ぽろぽろ泣いていたかもしれない。(単なるあぶないオッサンだナ、こりゃ)
綺麗なのである。
変身する前の月野うさぎチャンもきれいだが、なによりも八人のセーラー戦士たちの友情・愛・それぞれの運命、といった精神的なうるわしさとはかなさの二重奏が、ストレートに心に入るのである。
しかし初めて見たときは鳥肌が立った。あまりに長い変身シーンのときである。
「うわ、ワザトラシイ」と、何かほとんど生理的に感じたとき、私は昔からよく鳥になった。
変身過程での少女の自己陶酔的な表情、その場面にそぐいすぎてるバックミュージック。変身が終わると、敵に向かって、「月に代わっておしおきよ♡」と言う決まり文句。
すべてがキマり、ハマり過ぎてしまう(それがアニメだったりドラマなのだろうが)ミエミエの世界は、私は体質的に苦手な筈だった。
それなのに涙ぐむなんて、歳をとったのだろうか。涙腺が弱くなっているようでもある。「家なき子」を見て一回泣き、モーツァルトを聴いて泣き、自分の行ないを省みて泣いたりしている。
昨年末に映画化されたセーラームーンの観客動員数は、三百万人という。スーパーなどで、セーラームーングッズを見かけることも多い。ウケるにはウケるだけの要素がある、ということを、当日は自分の言葉で説明したい。
息抜き半分、勿論これからのこの機関紙の将来的な話もしたいと思っている。
まあ、お酒やジュースでも飲みながらやりましょう。
セーラームーンの話はどこへ行った
先月のデキゴト「
先月は、先々月より三名多い、七名の参加。もともと家には、怒りっぽい三歳の子供と二十二歳の女と、目を腫らした二十七歳の男がいたので、全員あわせるとちょうど十名である。
これだけ人が集まって楽しいのは、夕食と深夜の酒宴である。ここでは、夕食は男がつくるもの、となっている(私がそうしたいので、そうしているだけだが)。カレーライスをS君とつくる。そういえば先々月も、麻婆豆腐と青椒肉絲をS君とつくったっけ。
S君と一緒に料理するのが楽しいから、夕食も楽しく映るのかもしれない。
明け方まで飲んでいるのも、今回はとても面白かった。どこがどう面白いかというのは、「空気の回転」のようなものがあって、箸が転がっても可笑しくて堪らない、ビールを注いだコップを三回こぼしても面白い、何が起こってもそれがタイミング良くて笑ってしまう、そんな感じだった。
ところで今回浮き彫りにされた(?)問題のひとつとして、「食費・会費(郵送費)」がある。みんなカネ絡みでげんなりするが、仕方ない。(これが現実ナノダ)
それぞれ、かかる費用が、参加した人達から取りにくいのである。家を開放して、やっている程度の小さな会では、ここで会っている人達は皆、友達関係で成り立つような感じである。あまりカネカネすると、非情な人間に映る。食費だあ切手代だあと、お金を取りたくない。
しかし現実問題として、二~三人ならともかく、十人近くなると、かかる食費や菓子・飲み物代も厳しいものがある。
会費の中には、切手・封筒・コピー代等が含まれている。現在この機関紙は、ちょうど三十名の人達に郵送している。しかし会費を取るときに感じる気まずさは、なんなのだろうか。
ここに見えるのが、
「なんのために集まるか」という、「なんのために生きるのか」と同じような、存在意義であろうか。(なにやら大袈裟になってきたナ)
参加した人が、ここで何か得るものがあったなら。
あるいは、ここで何か一緒にやっていこうと思ってくれているのなら、会費も遠慮せずに取れるものだろうか。
ただジュースや酒を飲み、よもやま話で楽しくやるだけだと、会費を取るに値しないような場所なのに、お金を払わせているような気になる。
また、何か場所があるから行ってみよう的に来る人と、この場で何かやっていこう的に来る人とでも、会費の意味合いは違ってくるだろう。後者の人は、こちらから何も言わなくても、自主的に払ってくれる。それはそれで恐縮だが、精神的に助かる。
せっかく学校をやめたのなら(別にやめなくてもいいけど)、それでどうやって生きていこうかと考えるなら、共に考えて生きたいものだ。考えるだけじゃ何も始まらない、ということはない。何も始まらないから考えない、なんてことはできやしねエ。何を言ってるんだろうね、このオッサンは。
──「とまりぎ」は、みんなでつくっていこう、なんて嘘は言うまい。結局は一人一人のもんであって、「みんな」というのは、なんかアヤシイよナ。
記念すべき(?)第一回。
初めて顔を会わす女性二名、今まで何回も会っていた男女一人ずつ、計四名が、わざわざ足を運んでくれた。
誰も来ないんじゃないか、と思っていた私にとって、「嬉しい誤算」というスポーツ新聞の大見出しである。
なぜ私はこんな集いを求めたのだろうか。改めて考えてみるに、何かしたい、と普段から思っていたフシはある。
何もしないでいたい、と思っていたフシもある(こっちのフシの方が大きいだろうナ)。ただアソんだりシゴトしたり、なんかやってるわけだけど、「人との接触」ということに関して、何もしないというのは─── 自分の小部屋に浸って安住しちゃいそうだった。
義理やタテマエでつきあう人間関係に慣れてしまうのは恐ろしい、とも思っていた。
たまたま私には、学校に行かなかった私がいて、なんとなく同じように、公教育に疑問を抱いている人との接触の場を持ちたい、とは、ずっと思っていた。
また、今、とても生きにくいと実感させられている。
何かに(ほとんど会社だろうが)所属していないと、生きにくい。そう感じるのは、私の小心ゆえなのだろうか。
学校には、みんないやいや行っているものだという。その訓練に鍛えられた人は、会社に通うことは、たいした苦痛ではないのだろうか。
私にとって学校は、社会に出てから困らないようにしてくれる場所のように映る。企業にとって(自分にとっても?)困らないように。── でも本当にそうなのだろうか。
… なぜ集いの場を求めたのか。結論。
結局、ヒトとの接触なくして、ジブンのセイチョーはナイ、ということダ。── そんなこたあ、ないだろう。
まあ、とりあえず、そう思うンだ。(人によるよナ)
今月のお知らせ
「セーラームーンに於ける現代性」
セーラー服美少女戦士・セーラームーンをご存知だろうか。
こどもはなぜかアニメ好きで、うちの娘もクレヨンしんちゃん・ドラゴンボールのTVのために曜日を覚えた。
毎週土曜夜七時は、10チャンネルでセーラームーンである。
普遍的といえる正義対悪のアニメ図式に則ったものではある。が、いままで不覚にも三、四度、涙がこぼれそうになる場面に逢着してしまった。
一緒に見ていた者がいなかったら、ぽろぽろ泣いていたかもしれない。(単なるあぶないオッサンだナ、こりゃ)
綺麗なのである。
変身する前の月野うさぎチャンもきれいだが、なによりも八人のセーラー戦士たちの友情・愛・それぞれの運命、といった精神的なうるわしさとはかなさの二重奏が、ストレートに心に入るのである。
しかし初めて見たときは鳥肌が立った。あまりに長い変身シーンのときである。
「うわ、ワザトラシイ」と、何かほとんど生理的に感じたとき、私は昔からよく鳥になった。
変身過程での少女の自己陶酔的な表情、その場面にそぐいすぎてるバックミュージック。変身が終わると、敵に向かって、「月に代わっておしおきよ♡」と言う決まり文句。
すべてがキマり、ハマり過ぎてしまう(それがアニメだったりドラマなのだろうが)ミエミエの世界は、私は体質的に苦手な筈だった。
それなのに涙ぐむなんて、歳をとったのだろうか。涙腺が弱くなっているようでもある。「家なき子」を見て一回泣き、モーツァルトを聴いて泣き、自分の行ないを省みて泣いたりしている。
昨年末に映画化されたセーラームーンの観客動員数は、三百万人という。スーパーなどで、セーラームーングッズを見かけることも多い。ウケるにはウケるだけの要素がある、ということを、当日は自分の言葉で説明したい。
息抜き半分、勿論これからのこの機関紙の将来的な話もしたいと思っている。
まあ、お酒やジュースでも飲みながらやりましょう。
セーラームーンの話はどこへ行った
先月のデキゴト「
箸が転がった
」先月は、先々月より三名多い、七名の参加。もともと家には、怒りっぽい三歳の子供と二十二歳の女と、目を腫らした二十七歳の男がいたので、全員あわせるとちょうど十名である。
これだけ人が集まって楽しいのは、夕食と深夜の酒宴である。ここでは、夕食は男がつくるもの、となっている(私がそうしたいので、そうしているだけだが)。カレーライスをS君とつくる。そういえば先々月も、麻婆豆腐と青椒肉絲をS君とつくったっけ。
S君と一緒に料理するのが楽しいから、夕食も楽しく映るのかもしれない。
明け方まで飲んでいるのも、今回はとても面白かった。どこがどう面白いかというのは、「空気の回転」のようなものがあって、箸が転がっても可笑しくて堪らない、ビールを注いだコップを三回こぼしても面白い、何が起こってもそれがタイミング良くて笑ってしまう、そんな感じだった。
ところで今回浮き彫りにされた(?)問題のひとつとして、「食費・会費(郵送費)」がある。みんなカネ絡みでげんなりするが、仕方ない。(これが現実ナノダ)
それぞれ、かかる費用が、参加した人達から取りにくいのである。家を開放して、やっている程度の小さな会では、ここで会っている人達は皆、友達関係で成り立つような感じである。あまりカネカネすると、非情な人間に映る。食費だあ切手代だあと、お金を取りたくない。
しかし現実問題として、二~三人ならともかく、十人近くなると、かかる食費や菓子・飲み物代も厳しいものがある。
会費の中には、切手・封筒・コピー代等が含まれている。現在この機関紙は、ちょうど三十名の人達に郵送している。しかし会費を取るときに感じる気まずさは、なんなのだろうか。
ここに見えるのが、
「なんのために集まるか」という、「なんのために生きるのか」と同じような、存在意義であろうか。(なにやら大袈裟になってきたナ)
参加した人が、ここで何か得るものがあったなら。
あるいは、ここで何か一緒にやっていこうと思ってくれているのなら、会費も遠慮せずに取れるものだろうか。
ただジュースや酒を飲み、よもやま話で楽しくやるだけだと、会費を取るに値しないような場所なのに、お金を払わせているような気になる。
また、何か場所があるから行ってみよう的に来る人と、この場で何かやっていこう的に来る人とでも、会費の意味合いは違ってくるだろう。後者の人は、こちらから何も言わなくても、自主的に払ってくれる。それはそれで恐縮だが、精神的に助かる。
せっかく学校をやめたのなら(別にやめなくてもいいけど)、それでどうやって生きていこうかと考えるなら、共に考えて生きたいものだ。考えるだけじゃ何も始まらない、ということはない。何も始まらないから考えない、なんてことはできやしねエ。何を言ってるんだろうね、このオッサンは。
──「とまりぎ」は、みんなでつくっていこう、なんて嘘は言うまい。結局は一人一人のもんであって、「みんな」というのは、なんかアヤシイよナ。