第28話

文字数 2,731文字

 父が帰って来たのは、それから二時間後だった。
 エンジン音がして、それから車庫の扉が開く音がする。ベッドから飛び起きて駆け下りて行くと、父が仕事荷物を母に手渡していた。父は「ただいま」と短く挨拶して、さっさと風呂に駆け込んでしまう。写真のことを訊く暇もなかった。
 それから、母と二人で夕飯の支度をする。配膳を済ませて卓についても、母は私と一言も話さなかった。どうも拗ねているように見える。もちろん、私の思い過ごしかもしれない。いずれにせよ、お互いに学習塾の件を気にしているのはたしかなことだ。
 母は引っ越す前から、塾へ行かせたいと話していた。表立って教育教育とうるさいわけではなかったが、学校の教材やカリキュラムのこと、地方での学習のことなどについて、よく父と話していたのを知っている。なにしろ壁が薄かったから、夜ちょっと起き出してみると、そういう夫婦の会話がよくわかるのだ。
 母の様子を見ながら、私は考えた。
 祖母と母が、ふたたび仲違いすることになったのは、もしかすると母が原因なのではないか。祖母に対して、こんな場所では勉強ができないと言い立てる母の姿を思い浮かべるのは簡単だ。祖母はいつも言っていた。「土地の者は土地で生きるのが自然」だと。結婚等の特別の事情がない限り、よその人が越してくるのも嫌がった。それは不自然なことだからだ。
 外国人のことは心底から嫌っていた。別の都道府県の人も大嫌いだった。祖母が気を緩めるのは、最寄りの町からだ――沙織もどこかへ出て行きたくなる日が来るね――祖母の言葉を、思い出す。何度も言われた。祖母と最期に会った日にも。「ううん、私はずっとここにいると思う」そう答える私に、祖母は独り言のように呟いた――あと、何年もしないうちにね。
 やがて父が風呂から上がってきて、食卓につく。アルバムの話を切り出そうとすると、母が先に話を始めてしまう。近所の誰々さんに何かをもらったから今度お返しをするというような退屈な話と、今度の休日にある草刈りをお願いしたいという話だ。唖然とした。ただでさえ仕事があるのに、このうえ、雑用までさせるのか。
「草刈りなら私が行くよ。お父さんは休んでて」と私。
「いやいや、別にいいよ。父さんが行くから」
「そんな。お父さん、仕事で大変なのに……」
「いいのよ。たまには気分転換しなくちゃ」
 母が父の頭をぽんぽんと叩いて笑う。まるで召使いだ。むっとする。
「それよりさっきなにか言いかけたんじゃないか?」と父。
「ああ、そうか」私が口を開くよりも前に、母がまた喋り出す。「この子ね、昔の写真が見たいんだって。部屋に置いてあるやつは生まれてからのアルバムでしょ。その前の」
「もう! 私が説明するのに!」と私が不機嫌に言ってすぐに、父が陽気に応えた。
「へぇ、沙織は運がいいなあ。本当なら実家まで取りに帰らなくちゃいけないところだぞ。ちょっとついてきなさい。こっちこっち」
 父は立ち上がって、私を車庫へ連れて行く。そうして隅に固めてあった段ボールをひらきだした。このダンボールは、帰省以来ずっとここに放置されていたものである。覗いてみると、何冊もの本とか、レコード盤とか、けん玉とか細かなもの、それから映画のパンフレットとか、色々ある。
「こんなのどうしたの?」
「大叔母さんがじいさんの部屋を片付けただろ。そのときに、父さんに関係のありそうなものをまとめててさ、この前引き取って来たんだ。整理が面倒だし、母さんはやってくれないし、鬱陶しいから放り出してたんだけど」
 適当な人だなと思う。あるいは、おおらかな人と言うべきか。車庫に屋根はあるから大丈夫だが、外に放置しているのはあまり清潔とはいえない。
 ゴキブリでも出やしないかとびくびくしていたら、山の一番底からとうとうアルバムが出土した。八冊もある。しかも、かなり分厚い。真っ黒い装丁が七冊と、真っ白い装丁が一冊。やはり白いのに目が向いたが、父がまず見たのは黒色のほうだった。
 ひらいてみると、一頁使って、家族三人の写真がある。祖父母と父だろう。右下には鉛筆で、昭和何年何月何日と書いてある。どこで撮影したのかわからなかったが、父に教えられて、学校の校庭だとわかった。父曰く、昔は木が生えていたが、いつかの嵐の日に折れてしまったという。また、写真にあるように、昔にはタイヤの遊具があったが、これもいつの間にかなくなった。あんな田舎でも、少しずつ姿が変わっていく。変な感じだなあ、と父は言った。
「古すぎないぐらいがいいけど」と私。
 祖父がカメラに凝っていたらしい。私は試しに自分でぱらぱらとめくってみた。私の知らない、しかし見たことのある景色が撮られている。この前の盆法要でむにゃむにゃ言っていた坊主が若い姿で写っている。大叔母もいる。
 そのうち写真はカラーになった。父が生まれた辺りだ。収集したカメラを写したものもある。鏡の前にずらりと並べてあって、撮影に使ったカメラ自身もしっかりと写っていた。その趣向がおもしろくて、少し笑ってしまう。
「お父さん、やっぱり借りれるだけ借りてもいい?」
「いいぞ。埃っぽいから、ここでちょっと叩いてから持っていきな」
「お父さんの恥ずかしい写真もあるかも」
「ないよ。親父は、作品以外はそこに入れなかったから」父は笑う。
 山積みのアルバムを部屋に持ち帰った。前が見えないほどではないが、量が多く、相当に重いので、机に置いて一息つく。姉が、読んでいた漫画を放り投げて近づいてきた。アルバムだと説明すると、姉はくさそうに鼻をつまみながら、フウンと言った。それからぱらぱらと繰ってみて、やはりフウンという。
「また田舎に帰りたくなったの?」姉が意地悪に笑う。
 そういうわけじゃないけど、と言おうとして、詰まる。そうかもしれない、と笑った。
 写真を一枚ずつ見ていたら、間もなく、姉が寝始めた。
 仕方がないからその日はそれで終わりにして、部屋の電気を切って私も寝た。翌日、姉はさっさと遊びに出かけてしまったが、私は部屋にこもってずっと写真を見ていた。撮影場所はどこか、日付はいつか確認しつつ、頭の中で時系列順に並べ、なんとなく物語を組んでみる。祖父は写真好きだという話だが、どうやら、写るのも好きだったようだ。
 祖父の写っている最後の写真は、床に臥せっているときのものだ。足元から撮影されたもので、両脇にいる家族が目を閉じている祖父を覗き込んでいる。チェック柄の枕に敷いたタオルの上に頭をのせていて、体は布団に隠れていて見えない。苦しそうでもあるし、穏やかそうでもある。撮影は祖父の指示で行われたというコメントが添えてある。それから――意識混濁、͡翌週逝ク。
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