第29話

文字数 2,947文字

 祖父が亡くなってからのアルバムは一冊きりしかない。それが白色のアルバムだった。
 何が写っているかわからないピンボケもあって、横には「失敗」と一言書いてあった。たぶん、父が撮ったのだろう。最初のうちは風景や花、雲ばかりだったのが、段々と人物が出て来た。まずは祖母から始まって、それからは近所の人が雑多に撮ってある。目についた人から順々という風でもある。そのうち、母が出て来た。今よりずっときれいである。それからしばらく、母の写真が続いた。一頁に何枚も貼ってあって、しかも、いい加減飛ばそうかと思うぐらい似たような構図が続く。結婚式の写真もあった。二人が和服を着ている。歴史の教科書に載るような、出来上がった肖像である。
 ぱらぱらと流し見していたら、急にページが軽くなった。額に入れるみたいに、たった一枚の写真が真ん中に置かれている。父と母、それから祖母が、玄関で並んで一緒に写っている写真である。なんのコメントも書いていないから、時期はわからない。ただ、母の指には結婚指輪がある。祖母も、母も、父も笑っている。――私はぶつぶつと独り言をいいながら、以前のページを改めて確認する。母と祖母が一緒に写った写真は今のところこれ一枚だけ……。
 ところへ、母の声がした。昼ごはんができたらしい。
 アルバムを一旦置いて下りていくと、食卓にラーメンとチャーハンがのっている。対面に座った母の顔をちらと一瞥する。機嫌は悪くないようだ。それには安心したが、どうにも、若い頃の写真がちらついてしまって落ち着かない。今が悪いとは言わないが、人間はやはり年をとるものだと思う。そうして、最後には死ぬのだ。胸が詰まる。
「写真はもうみんな見たの?」
「あと少し」
母と写真の話をしようかと思ったが、その前に、
「早く返さなくちゃ駄目よ。汚すんだから」
 と釘を刺された。気分はよくない。俯いて、言う。
「ばあちゃんと一緒に写ってる写真があったよ」
「あ、そう」という声が聞こえる。
 少しの間、沈黙があった。私は腹を決めて、母を見た。
「二度目のけんかの原因はなんだったの?」
「何、そんな昔の話をして。早く食べちゃいなさい。今日は出かけないの?」
「昔の話じゃないでしょ」私の声は、震えていた。「今だってケンカしてる!」
 また、沈黙が起こった。
今度は、長い沈黙だった。
私が俯いたのを見て、母は言った。
「顔を上げなさい」
「どうして」
「いいから、上げなさい」
 おそるおそる、前を見る。母は体を横に向け、髪を上げて、私に後ろ首を見せた。ほくろが、ひとつある。普段気にすることはないが、あること自体は昔から知っている。
「それがどうしたの?」
「これが原因だっていうこと」
「よくわからない」
 母はため息をついて、言った。
「あなたのおばあさんはね、私の首にほくろがあるのを怒ったのよ」
「どういうこと。意味が分からない。ほくろぐらいで何を怒るの」
「あのおばあさんは、普通の人が知らないような妙な迷信を信じて疑わないの。人間のほくろの位置というのは、その人間の性質を表してるって文句を言われた。たとえば目元にほくろがあるのは泣きぼくろといって、昔によく泣いていたことを示している。それで、お母さんの首にあるほくろは、縁起がものすごく悪いの。人間としての根が腐っているんだって。結婚してたとえ子どもを産んだとしても長続きは決してしないのはまちがいない。だから今のうちにお父さんと別れろって、そう言われたの。そんなこと言われて、お母さんが黙ってると思う?」
 思わない。母ならすぐに噛みつき返すだろう。
 祖母は迷信家だった。だから、十分ありそうな話だと思った。泣きぼくろといったそれらしい傍証がくっついているのも、迷信家らしい物言いである。
「わかったら、満足した?」と母。
 満足は、したと思う。昼ごはんを食べ終えて部屋に戻っても、私はアルバムの続きを見る気がしなかった。うずたかく積まれているのが、今は少々うるさく感じられる。だから、今晩には返そう、とも考え始めた。しかし、本当にそれでいいのかと、またうじうじと悩むどっちつかずが顔を出しはじめる。
 だがこのどっちつかずは、曖昧でありながら、たしかな根拠をもって私に迫った。私は理由がわからずとも、たしかに確信していた。「お母さんは嘘をついている」と。
 私が引っ掛かっていたのは、もちろん首のほくろだった。
 あの狭い田舎で、首のほくろ程度のことで、他の人間を締め出したりするだろうか。
 私はアルバムをめくったり、記憶を辿ったりして、大叔母の首を思い出す。ほくろはなかった気がするが、いまいち覚えていない。父はどうだろう。なかった気がする。当の祖母自身を思い出してみれば、首にしみらしきものはあったが、ほくろはなかった。
 私と姉にはほくろはないと言い切れる。なにしろ私たちは双子であることを利用して、入れ替わって悪戯をやっていた人間だから。ほくろなんていうわかりやすい識別法はとっくの昔に気にかけている。だがこうやって近しい人間を一人ひとり審判にかけていったとき、本当に誰の首にもほくろがないと断言できるだろうか。できるわけがない。
「お母さんは嘘をついている」
 私は引き出しを開けた。そこには、光子さんからもらった電話番号のメモがある。私はそれを机の上に出すと、小走りに部屋の外に飛び出した。階段のところで足音を忍ばせて、ゆっくり歩く。母は今頃、台所で洗い物をしているか、テレビでも見ているだろう。玄関先にある電話の子機をそっと抜いて、またゆっくりと階段をのぼる。
「沙織、何してるの?」
 台所のほうから声がした。私はぴたっと止まる。
「え、なにが? トイレに来たんだけど」
 そう返事をすると、納得したのかなんとも言わなくなった。私は一応言葉通りトイレに入って、少し待ってから、水を流す。そして今度は堂々と音を出して、とんとんと階段をのぼっていった。
 部屋に入って、私はベッドに飛び込んだ。布団にくるまって、ボタンをひとつひとつ慎重に押していく。手が震えていた。呼び出し音が鳴る。
 電話に出たのは、まさしく光子さんだった。
 挨拶するのも忘れて色々喋ったので、向こうは驚いた様子だったが、相手が私だとわかると「どうしたの?」とやさしい声になった。私は一度深呼吸をして、改めて言う。
「首にほくろがある人を、探してるんです」
「首にほくろ?」
「変に思うかもしれないですけど、その、すごく大事なことで……」
「それって私じゃ駄目なの? 私、首にほくろがあるよ」
 光子さんの声はやさしい。そして、こう続けた。
「おばあ様は沙織ちゃんと詩織ちゃんのことを、本当に心配されていたの。特に沙織ちゃん、あなたのことをね。あなたはずっとおばあ様と一緒にいたから」
 私は光子さんの言う意味がわからなかった。
「隠さないことが、おばあ様の想い」
「どういう意味ですか。それはどういう……」
「私は、おばあ様の意志なのよ。これで役目はおしまい」
「よく、わかりません」
「それでいいの。少しずつ、気づいていけばいいの」
 それで電話は切れた。私はたった一人、どこか知らない土地に放り出されたような気分になった。子機を握りしめたまま、しばらく動くことができなかった。
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