第24話

文字数 4,699文字

 どうして、こんな場所に帰りたいなんて思うだろう。なんにもない、この場所に。
 私は親戚連中が事あるごとにやりたがる、宴会というのが大嫌いだった。祖母の通夜のときも、葬式のときも、酒を飲んで大笑いするような、いやな人たち。
 彼らは盆法要が終わった日曜日の晩に、祖母の家にわらわらと集まってきて、ぎゃあぎゃあとよく騒いだ。男衆は、飲むことだけを生きがいとしている連中だから、ともかく飲む。私が祖母の遺影を見ながらぼんやりしていると、親戚のおじさんが「ばあさんがいないと寂しいなあ!」と絡んできた。ああ寂しいよなあ、と他の人が歌うように続ける。それから「笑っとるなあ!」と遺影を指差して、なにがおかしいのか、げらげらと腹を抱え出した。沙織ちゃんも笑わんといかんよ、笑う門には福来るってなァ、知っとるね、ほら、ちっと酒飲むか……。
 この連中が黙るまでには三つの移行段階がある。飯から酒。酒から話。話から眠り。
 私に絡んできた男は祖母が倒れていたちょうどその畳の上でひっくり返っていた。畳は祖母の死後に新しく取り換えられたのだが、死という不吉を隠すという目的は果たされず、周りの畳と不釣り合いにきれいなので、むしろ強調することになった。そして今は品のないおっさんがゴキブリのように死んでいる。私はつくづく嫌になった。この人たちは酒を飲むために法事をやるのだと思った。
 この酔っ払いには、姉も困らされていた。「都会では彼氏はできたか」と言って、とにかくからかおうとする。親戚といっても深い関係とばかりも言えないから、姉も人見知りが出て、外行きのおどおどとした感じでしゃべるので、飲んだくれは余計に調子に乗る。肩に触られて姉が飛びのくと、「うぶやのぉ」と言ってげらげら笑う。宴会が終わる頃には姉はへとへとになって、口もきかずに寝床に引っ込んでいった。
 父は親戚を家に送り届けるためにしばらく前から姿が見えなかった。
 母はずっと台所にこもって、調理をしていた。それか、たまに出て来て給仕をする。いつものことだ。母には、宴会に参加する権利がない。母には最初から、席が与えられていない。昔から、いつも光子さんが料理を小皿に取り分けてくれて、母はひっそりとそれを食べている。あの穴倉みたいな、薄暗い台所で、たった一人。
 本来は、私がその役をすべきなのだろう。それを光子さんに甘えているのは、なによりも、私があの穴倉を怖がっているからだ。台所は一段低い所にあって、照明もろくにないその薄暗さが、昔から私は怖かった。今も怖い。祖母が生きていたときも、簡単には出入りしなかった。殊に、切れかけた蛍光灯がぱちぱちと瞬いているときなどは一層怖かった。幽霊即ち枯れ尾花を当時から標榜していた私ですら「何か出る」と言い立てた。幽霊だなんて、あの迷信家の祖母でさえ信じていなかったというのに。
 しかもその日は盆である。
 お盆というのは、死者があの世から戻って来る日である。いま台所に幽霊が出たら、きっと祖母に違いない。祖父は台所には立たない人だったと聞いている。祖父は会ったことがないから驚くかもしれないが、祖母ならべつに怖がることもないはずだ。だが私はやはり、一度も台所には立ち入らなかった。ただただ怖い。恐ろしくてたまらない。
 少し待っていると、台所のほうから光子さんが現れた。
 半年前より少し痩せただろうか。だが、不健康そうではない。私に向けた笑顔も、以前よりずっと明るく見えた。光子さんは私を縁側に誘って、隣り合って座った。障子を一枚隔てただけで、温度はずいぶん変わる。そうとはいえ、客間は少し肌寒かったから、夜気はちょうどよかった。
 庭、枯れた池、塀、そうして夜空に融けた村が、目の前に広がっていた。ぽつぽつと点在するあの白い星のなかには、人が住んでいる。ここに長く住んでいれば、行ってみなくても、そこに誰がいるかすぐにわかった。ただ、この半年のうちに葬式がいくつかあって、灯りの数は減っている。
「私がこの村に来てからもうずいぶん経つけれど、景色だけはずっと同じ」
 光子さんは目の前に広がる空間をずっと先まで眺めた。向こうのほうで光がちらちらしている。誰それの軽トラだろう、と二人で話した。ふっと光が消える。そういえば、と私は気が付いた。ここには街灯というものがほとんどない。そんなことを今更に不思議に思うこと自体、不思議だった。光子さんの目が、寂しそうに潤んだ気がした。
「沙織ちゃん達も大変よねえ。来るだけで一日仕事だもん。明日には帰るんでしょ」
「明日の朝には出ます。父の休みが三日だけなんです」
 そう言いながら、私は指を三本立てた。
「どうだった、久しぶりに帰ってきて」
 私は黙り込む。申し訳なくて正直には言えない。けれど、嘘をついてもばれてしまう気がする。だから黙るしかなかった。光子さんは「そう」と言って、ちょっと笑った。
「私ねぇ、結婚してここを出ることになったの。もう聞いた?」
 そのとき初めて知ったのだが、光子さんは私たちが引っ越す前から少しずつ計画していたらしい。そして今は、ほとんどの時間を村の外で過ごしているという。食卓に並んでいた重箱も、贔屓にしている町の料亭から光子さんが配達してきたものだ。
「結婚しても、ここに住めばいいのに」ぽつりと呟く。本当に、何気なく。
「みんなと同じこと言うのね」光子さんはにやりと笑った。
 顔がぼっと熱くなる。ごめんなさい、と小さく謝った。
「そういえば」と光子さんが話題を変える。「沙織ちゃん、髪を切ってなんだか垢抜けたみたい。私も切ろうかな」
 光子さんが自分の後ろ髪をまとめる。首筋のほくろがちらと見えた――首にほくろがある人は――祖母の言葉がちらと頭をかすめる。しかしすぐに消えてしまった。ふっと、私の口からこんな言葉が漏れた。
「前から、訊きたかったんですけど。どうして、光子さんは私が私だってわかるんですか。私と詩織は、双子で、そっくりで、ほとんど誰も区別なんかつかないのに」
「私はね、二人が同じだと思ったことは一度もないの。出会った時から、ずっとね」
 私の突然の問いかけに、光子さんは淀みなく答えた。小学三年生のときの滝の出来事を覚えているか訊くと、頷きが返って来る。まっすぐにこちらを見る彼女の瞳に、女の子が映っている。それは、私……。
「みんなは、騙されます。入れ替わったら、絶対気づきません。あの時も」
「あれなんて、一番わかりやすいでしょ。どうしてみんなが気づかないのかのほうが、不思議よ。どうして、詩織ちゃんが本当に飛ぶと思ったんだろう。どうして、詩織ちゃんがあんな場所に来ると思ったんだろう――辿ればたどるほど、不自然なところだらけなのに。詩織ちゃんは朝目を覚ました瞬間にはもう、滝の心配をしているような子だと思うけど」
「そんなに繊細でしょうか」
「もちろん。わかるでしょう。たとえば今頃はきっと、沙織ちゃんが部屋に来ないことを猛烈に気にしてる。でもここに見に来たりはしない。寝たふりをしたまま、頭のなかで言うの。なんで沙織のやつは来ないの。大体、もう寝なくちゃいけない時間なのに来ないなんて信じられない――本当は心配なのよ。まだ沙織ちゃんが怒ってると思ってるから」
 私はそれを聞いてびっくりした。
「母から聞いたんですか」
「ううん。でもケンカしたんでしょ。違う?」
 光子さんはえへんと胸を張る。私は驚いて、それから笑ってしまった。どうしてわかったのかと訊いたら、「詩織ちゃんがいつもより気を遣ってる」と簡単に答えがあった。この人はどこまで察しがいいんだろう。察しがいい以前に、どこまで私たちのことを見ているのだろう。光子さんは、言った。
「おばあ様はね、私をこの村に留める努力をして下さったのよ。もちろん私は佐山家の親類ではあるけれど、やっぱり赤の他人には違いなかったから。ほうぼうへ挨拶をしたり、時には手土産を渡したり、あのご尽力がなかったら私はとうに町に逃げ帰っていたことでしょうね。感謝してるのよ、本当に……」
「それで、私たちのことを気にかけてくれるんですか」
「言ってしまえば、その通り。ただ、二人が可愛いってのもあるけど」
「ばあちゃんから頼まれて?」
「あの人は、本当に二人のことを心配していてね。なぜだと思う?」
 その問いかけは、奇妙なものに聞こえた。光子さんは間も置かず、さらにこう続けた。
「沙織ちゃんは、おばあ様と有希さんのことをどう思う?」
「ばあちゃんとお母さんは、ケンカしてました。今もしています。ずっと……」
「どうしてだと思う?」
「お母さんがここを出て行きたいと言ったから……」
「違うの。そうじゃないんだって。たしかにそれでケンカはしていたけれど、村に住んで、町で働くっていう折衷案をお互いが呑み込んだときには、もう仲直りしてたのよ――おばあ様本人から聞いたことがあるの」
「じゃあどうして、またケンカになったんですか」
「わからない」
 光子さんは寂しそうに笑った。嘘だ、と思った。
 光子さんは「ちょっと待っててね」と立ち上がって、電話台に置いてあるメモ用紙を一枚破って戻って来た。書き始めたのは、電話番号である。
「これ、新しい家の番号。なにかあったら掛けてきて」
 私はそれを意外に思った。なぜ母ではなく、私に伝えるのだろう。母にも伝えているのなら、なおさら意図がわからない。きょとんとしているうちに、光子さんは大叔母に呼び出されて、宴会の後片付けに行ってしまった。私はメモをじっと見つめながら、おかしい、おかしい、と頭の中でずっと繰り返していた。あんまりおかしいので、その日の夜はうまく寝ることができなかった。
 それで私は、みんなが寝静まった真夜中に家を飛び出したのである。
 自分でも、どうかしていたと思う。私は懐中電灯を片手に墓地まで走って、祖母の霊に会おうとした。会わなければいけないと、何かに導かれるように走った。
 だが、わかっていた。墓というものは所詮、単に骨を入れるためだけに設えられた容器みたいなものだ。墓地には相変わらず形の整った石くれが行儀よく並んでいたが、幽霊はいなかった。せめて火の玉でもと待ってみたが、肌寒いだけで何も出ない。獣一匹出ない。とにかく私一人ぼっちである。霊的なものを感じさせる雰囲気さえここにはない。ただ石が並んでいる。ただそれだけ。
 翌朝、私はまた墓地に出かけた。咎められないようにこっそり出たのだが、玄関のところで、父がダンボールを車に積み込んでいるところに出くわした。祖父の部屋を整理したときに出て来たもののいくつかを引き取れと大叔母に指示されたらしい。こんな朝早くにどこへ行くのかと訊かれて、ちょっと迷ったが、正直にばあちゃんの墓だと答えた。父はただ「そうか。早くな」と言った。
 墓石は朝もやに沈み、上りかけた陽に照らされてきらきらしていた。しかし神秘的な感じはしない。やはり、石が行儀よく並んでいるだけだ。祖母の墓は単にその並びの一つに過ぎない。どこにも祖母はいない。祖母は死んだ。死んだ者は、二度と蘇らない。
 私はそこでようやく、自分のしていることの間抜けぶりを自覚した。祖母でさえ信じなかった霊界の存在を、一時でも信じていた自分が恥ずかしくなった。祖母は死んだら終わりだと何度も言っていた。だから生きるのだと。その話を聞きながら、私は幼心に「あぁ、死んだら終わりなんだな」と思って聞いていた。祖母は自らもまたいずれ死ぬ存在なのだとも言った。そしてその言葉の通りに祖母は死んだ。すべては終わっていたのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み