第26話

文字数 3,221文字

 翌日、私は堤防に出かけた。姉と遊びに出かける約束を断ったのは、何日ぶりだろう。
 姉は美容室に行きたいと言ったが、母がそれを許さなかった。半月前に行ったばかりだったし、また髪型を揃えるつもりだと知って余計に反対した。母は「どうせまたケンカになるんだから」「次はハサミで何をされるかわからない」とぼやいていたが、私はその態度の中に、ある種の屈折を予感した。あるいは邪推かもしれない。母は、そもそも、私たちが同じ風貌だったことが気に入っていなかったのではないか。今までは、それを止める強い理由がなかっただけなのではないか。
 しぶしぶあきらめて、姉は昼から友達の家に遊びに行った。遅れて、私も家を出る。とんでもない熱気と日差しが、体にまとわりつき、体を突きさす。
 昨日はまたよく眠れなかった。熱中症になるかもしれない。熱中症になったら死ぬだろう。死んだら、終わりだろう。私は私がうつぶせになって倒れているのを想像しながら、歩いた。生きているか確かめるみたいに、何かを握るように何度も指を曲げる。死にたくない。
 帰省が終わってからずいぶん長く、私は亮太君のことを考えもしなかった。だから公園に彼の姿がなかったとき、深い寂しさとともに、これが当然だという気がした。私はブランコに座って、ちょっと漕ぎだしてみた。ぎぃ、と悲鳴が聞こえた。久しぶりで驚いたのかもしれない。頭上まで伸びた木々がさらさらと葉を鳴らした。
 彼の通う学習塾を探して駅前を歩き回ってもよかった。しかしそうしなかったのは、私にその資格がないからだ。私はやはり、どっちつかずの裏切り者である。私はもはや故郷を望むこともしなければ、この町を選ぶこともしない。私にはもう自分というものがよくわからない。私は私自身に嘘をつくから、本当のこと一切が見えなくなってしまった。
 私はいま、亮太君と会いたいと思う。しかしそれも、本当だろうか。
 会いたいという表現は部分的に真実を映しているとしても、それがまっすぐな真実なのか、屈折しているのか、あるいは反転した形なのか、それはわからない。私は霧の中に消える。私は現実世界のどこにも位置しなくなる。だというのに、私は確実に地面を踏んでいる――幽霊。その単語が頭をかすめる。
 目を閉じると、木々が囁くのといっしょに、「カオリ」と呼ぶ声が聞こえる気がした。
 亮太君は今頃、夏期講習だろうか。それとももう家に帰っただろうか。あるいはほかに秘密基地があって、そこに隠れているのだろうか。あんなに長い間そばにいたのに、彼のことは何も知らない。変な話だと思う。私たちのほとんどの時間はこの秘密基地に、この公園に、この堤防にあった。私たちの関係を知る者は、恐らく誰もいない。公園にやってきたサッカークラブの男の子でさえ、そうだ。だって、彼は私のことをただの一人の女だと思っている。のっぺらぼうの、ただの女……。
 亮太君との関係が、急に頼りなく感じられだした。
 二人だけの狭い世界だった。私はそれで安心だった。しかしその狭さは、私たち二人を繋ぐ糸の細さでもあったのだ。二人だけの世界のために、二人以外の人間が必要だなんて、誰が思いつくだろう。しかも私は 彼に嘘をついて、自分の姿を隠していた。
 私たちを繋ぐ糸は、もう何も残っていない……。
 そのときふと、私は米屋のことを思い出した。数日前、友人たちを連れて行ったとき、店主は私にあんころ餅を二パックくれた。あの時は嬉しいばかりで、他にどうとも思わなかった。だが、少し妙ではないか。友達をたった数人連れて来ただけで、高価な餅をあんなにくれるものだろうか。
 私に、かすかな予感が起こった。それで、米屋をもう一度訪ねてみることにした。店先で暇そうに突っ立っていた店主に、
「私の紹介で、男の子が来ませんでしたか」
 と訊いた。店主は「ああ、来たよ」と答えた。――
 盆か、盆を少し過ぎた頃に、店の前をうろうろしている男の子がいた。声を掛けてみると、友達に紹介されてここに来たのだと話してくれた。驚いたのはあんころ餅と冷菓子を胸いっぱいになるぐらいに買っていったことだ。彼とはいろいろな話をした。しかし妙なことだ。誰に紹介されたのかと訊いても、いまいち話が噛み合わない。彼はしきりにカオリ、カオリという。沙織か詩織の間違いじゃないかと言ったら変な顔をしていた……。
 私は、カオリがとうに死んでいたのを知った。私は、もう沙織でしかないのだ。
 暗くなって家に帰ると、珍しく父がいた。残業がなかったらしい。夕飯を食べているとき、今日は何してたんだと訊かれ、私は答えに窮した。
「そういえばこの前は堤防で何をしてたの?」と姉。
 どうしようか迷うが、しかし、もはや隠している意味もない。結局話してしまうことにした。姉も母も、私の外出のわけを知って納得した様子だった。
「隠れて男の子と会ってたなんて、なんかやらしいね」と姉がからかう。
「名前を間違えられたなら、はやく訂正すればいいのに」と母がお小言を言う。
「ずいぶん前に言ってたカオリの話はその子か。いやあ、いい名前だ」
と父はにこにこする。それからこう続けた。
「そのカオリというのは、どういう字をあてるんだろう」
 もともとが亮太君の聞き違いなのだから、字なんか決まっていない。しかし香織か花織か、だいたいそんなところじゃないか、という話になった。父はなるほどなあと頻りに頷いている。
 私にとっては重たい告白だったが、家族にとっては話の種のひとつだったらしく、すぐに話題は別のところに移った。姉はすぐに飽きたし、母は亮太君の通う学習塾のことばかり気にしているし、父は名前のことばかりだ。
「沙織、最近はよく勉強してたのにこの頃はさっぱりねぇ」
 と母が言う。父は愉快そうに笑った。
「あんまり勉強ばかりするのも駄目だよ。遊ぶことを知らないんじゃ、ろくな大人にはならない。そりゃ遊びすぎもよくないが、そのいい塩梅を知るためにも遊ぶのがいいのさ」
「あなたは呑気だからそれでいいけれど、この子の将来のこともあるからね」
 亮太君もよく将来の心配をしていたなと思い出す。
 母は毎朝新聞の折り込みチラシをチェックして、目ぼしい学習塾を見つけると、それを丁寧にとっておいて、後で私に見せた。母としては、多少なりとも都会へ越してきた以上は、娘になにか良い教育をしてやろうと思っている。これは将来に繋がるものだから、と何度言われたことだろう。
 私も少し前までその理屈に傾いていたが、今は空しく感じられた。人間、どうせ死んでしまうのだから、というようなこともちらと頭をかすめる。どだい、良い会社へ入ったからといってそれが何になるのか。ものを多少知ったところで何になるのか。盆の前まで熱心だった勉強は、私の憂鬱を晴らす薬にもならないではないか。米屋の冷菓子を、動物細胞のようだと比喩できることが一体どれほど偉いことなのか。
「沙織は中学校はどうしたいと思ってるの」
「どうしたいって、そりゃあ行くけど」
「私立には行きたくないの。私立に行きたいなら、塾に入ったほうがいいよ」
「別に行きたくないよ」
「考えもしないでそんなこと言わないの!」
 母が声を大きくした。うんざりする。この人はいつもそうだ。母にとって考えるという言葉の意味は、母の意向を汲み取ることである。とても付き合っていられない。「行かないからね」と念を押す。父が面白そうに笑った。
「塾に行ったからって合格が決まるわけじゃない」
「あなたがそんなにふわふわしてるから、沙織も甘えちゃうんじゃないの?」と母。
「まず沙織が私立に行きたいと思う。これがスタート地点。でも学校の勉強だけじゃ無理そうだ、ってなったときにはじめて塾をすすめるんだ。それでいいじゃないか。金なら俺が稼いでくる。沙織はなんでもやりたいことをやりなさい」
 母はそれで黙った。私は「ありがとう」と父にお礼を言った。
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