第1話 

文字数 1,326文字

 何を食べるか決めあぐねて、棚を左右にふらついている時、向こうにいたふたりの女性が話をはじめた。片方の女は確かにこのスーパーで見たことのある主婦である。お世辞にも痩せているとはいえないでっぷりとした体格で、商品に圧迫されてただでさえ狭い通路を余計に狭くしていたので、どうしても目についた。あらごめんなさい、と道をゆずる姿を何度見ただろう。
 もう片方の女はよく知らない。対照的な細身の女である。店の入り口あたりで野菜を物色していたが、いつの間にかここまでたどりついたらしい。買い物かごに人参、じゃがいも、たまねぎ、バラ肉の入っているところを見ると今晩はカレーらしい。あるいは肉じゃがか。
 日はすでに高くのぼり、昼時である。おつかいを頼まれてここまで来たが、そろそろ帰らなくてはならない。そう思って、お菓子を早く選ぼうとするのだが、延々と逡巡している間に、例の二人がそばで話を始めてしまった。菓子の選択は脇に逸れ、彼女らの世間話に耳をそばだてた。太った女がこんなことを言う――

 夏休みが始まった御蔭で、家のなかが騒がしくて仕方がない。上の子も言うことを聞かなくなってきている。この間も学校の宿題をやったのかと訊いたら、いまやるところだったのに気持ちが挫かれたと言い訳をする。その日一日はずっと機嫌が悪かった。本当に母親をなんだと思っているのかわからない。はやく学校が始まってくれればいいのに。うちの旦那は子どもたちの教育の全部を私に押し付けている。仕事が忙しいのはわかるが、たまには男親からきちんと叱ってくれないと効き目がないように感じる。母親からは怒られ慣れていて、さっぱり甲斐がない。このままでは駄目な子になってしまうのではないかと心配だ。御宅の何某君は本当に言うことをよく聞く良い子で、どういう教育法を使っているのか是非聞きたい……。

 細身の女はこれに応えて曰く――

 うちの旦那も似たようなもので、子どもの教育には一切関知しない。興味がないようにも見える。そしてやはり同じように、子どもも言うことを聞かない。たとえば昨日の話だが、夏休みを迎えて初めての土曜日だということで、ちょっとどこかへ遠出しようという気になった。ところが、子どもはどうしても行きたくないという。どうしてかと尋ねてみれば、母親と一緒にいるところを見られるのが恥ずかしいんだそうだ。私はあんまり残念で遂にこういう時が来たかと悲しかった。子どもの成長は、親が考えているよりずっと早い。これからの私たちにできる教育というのは、育つ環境を整えてやることだけで、あとは祈ることだけじゃないか……。

 細身の女はこれだけ言ってしまって、手元の腕時計を見ると、ではそろそろと太った女に挨拶をした。太った女は返事をして、何も起こらなかったみたいに買い物を続ける。今の議論に満足したともしていないともとれない。はたで聞いていた私のほうが却って不満足だ。
 家を出る時に持たされた買い物メモには、もちろんお菓子のことは書いていない。商品棚とメモを何度か交互に見た。今度は買うか買うまいかで体が左右に振れる。そして遂には、かごに入れずに終わった。買わないと決めたのではない。どうすべきか判断がつかなかった。
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