第12話

文字数 2,045文字

 亮太君は気がすすまない様子だったが、ほら、ほら、と急かして、一緒に外を歩き始める。秘密基地の外では、太陽が眩しく照り付け、遠くのほうの景色を熱風で揺らしていた。最初は彼も嫌そうだったが、歩くうちに気も晴れて来たらしく、笑顔が見えるようになった。
 川に沿ってふらふらと散歩していると、道端にセイヨウタンポポが咲いている。私が屈んで見ていると、後ろにいる彼がしきりに私を呼び始めた。いつの間にか、彼も屈んで何かしている。覗いてみると、そこにはノゲシが咲いていた。少しタンポポに似た花である。
「やだ。これはタンポポじゃなくてノゲシっていうんだよ」
 そう言うと、彼は納得のいかない顔をした。説明してやろうとしたが、私も別に詳しくはないからやめた。ただノゲシがタンポポと違うことぐらい、なんとなくわかりそうなものだと思った。彼は区別に自信がないらしい。植物の知識がないのか。
「それはギョウギシバ」と教え、
「それはエノコログサ」と教え、
 そんな風に名前を順番に教えていく。まさかエノコログサを知らないなんて。私は一本むしって、エノコログサの花穂を触りながら、本当に知らないのかと訊いた。彼はなんだか不満そうな顔をしている。
「猫じゃらしっていうの。知らない?」と私。
「聞いたこともない」彼はあくまで真面目である。「カオリは植物が好きなのか?」
「私は、どうだろう」また答えられなくなって、曖昧に笑う。「まあまあかな」
 彼はふうんとつまらなそうに言う。
 しかしそうかといって、彼に植物の構造のことを訊くと、導管がどうだの細胞がどうだの難しいことをいろいろ言う。どうやら塾では猫じゃらしのことだけは決して習わないと見える。ツツジは知ってるかと訊いたら、知らないという。花の蜜を吸ったことがないのかと訊くと、俺は人間だから吸わないという。まったく驚いてしまった。こんな人間には会ったことがない。それとも、私のほうがおかしいのか。学校の友達もまさかみんな知らないのではないか。なんだか世界が曲がるような気がした。
「カオリは田舎者だから雑草に詳しいんだろう」
「なんか失礼な感じがするなあ」
「でも実際そうだろう。実際そうなんだから、やっぱりそうなんだろう」
 彼は変に込み入ったことを言う。
「草刈りはよく手伝わされてたけど、そのせいかな」
「やっぱり田舎者じゃないか」
「うるさいな。あんまりいい気分しないよそれ」じろりと彼を睨む。
「でも、事実だからしょうがない……」
 彼は申し訳なさそうにしたが、謝りはしなかった。腹は立ったが、言われてみれば実際田舎者だから、猛烈に言い返してやろうとも思わない。結局それなりに流してしまった。それから公園に帰って、また基地に入って、夕方まで喋って、日が落ちたらお別れをした。あっという間に、一日が終わってしまった。
 そうして、次の日も彼の待つ公園に出かけた。次の日も、次の日も。
 いつ公園に出かけても、亮太君は公園にいた。いつだって一人で居て、秘密基地の中で本を読んでいる。会うと散歩に出かけるか、たいてい秘密基地のなかでお喋りをした。何時間も、飽きもせずに話し続けた。そうしているうち、七月は終わり、八月になった。
 亮太君はその頃から、日の沈まないうちに帰りだすことが増えた。黒地に黄色い帯の入った通塾鞄を提げて来て、「夏期講習が本番だ」と嬉しそうに言って帰ってしまう。これから勉強なのに笑っているので、どうかしてるなと呆れながらも、楽しそうにしているのはうらやましかった。
 一緒に過ごすうち、私もだんだんと彼にかぶれてきた。家に帰ると大概勉強するようになった。なるほどやってみると、勉強というものは案外楽しくもある。問題を解くのはしんどいが、そこは登山のようなもので、頂上についたときの嬉しさがすべてをかき消してしまう。夏休みの宿題はすぐに終わり、退屈して、とうとう書店に計算ドリルまで買いに行ってしまった。私もいよいよどうかしてきたらしい。
小説も片っ端から読んだ。これもやはり亮太君にかぶれたのである。姉が見栄を張って図書館で借りてくる本を、順々に読んでいった。彼が出かけて行ったあとの秘密基地で、たった一人、ぱらぱらとページをめくっていると気持ちが落ち着く。重たい心を脱ぎ捨てて、本の中にあるひとつの世界に没入するのはとても楽しい。
 私は日本の作家を好んで読む。海外のはあまり読まない。海外のものは登場人物の名前が長くて、とうてい覚えられない。どうもいま生きている現実とかけ離れすぎている気がする。現実との乖離が気になるので、私は魔法が出るのは読まない。現実に魔法なんかない。あるのはガスコンロとか、乾電池とか、パソコンとか、それぐらいである。幽霊や妖怪が出るのも馴染めなくって読まない。
 そんななかで、特に気に入った作家は、母に頼んで岩波のを何冊か買ってもらった。亮太君は児童文学もいいぞと言っておすすめしてくれたが、作中にドラゴンが出て来たので、結局読まずに返してしまった。
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