第10話

文字数 1,696文字

 ぱちりと目が開く。まず考えたのは「ここはどこだろう」だった。
 しかし、尋ねるまでもない。部屋のベッドで寝たのだから、何か特別な事情でもない限り、部屋のベッドで目を覚ます。壁にくっつくように配置されたベッドから、白い壁紙に装飾された立方体の内部が見えた。学習机や洋服箪笥、全身鏡、いろいろ置いてある。しかし、途方もなくがらんどうに感じる。空虚である。
窓の向こうからけたたましく喚く蝉の声と、うるさいぐらいに明るい日の光が侵入してきていた。部屋の向かいにあるベッドには、既に姉の姿はない。布団のうえに乱雑に放りだされた寝間着を見るに、もう出かけたのだろう。姉は毎日遊んでいる。今日もそうだ。訊かなくてもわかる……。
 寝汗がひどく、気持ち悪い。体を起こして上を脱ぐと、肌着がぴたぴたとくっついているのがよくわかった。タオルを取りに立ち上がろうとしたとき、ぐらりと姿勢が崩れて前のめりに倒れてしまった。頭がぼうっとする。「危ない」と思って、体を引きずるように部屋の扉を開けた。ふぅっと冷たい空気が体に触れる。それで多少気分が良くなる。しかし階段は慎重に下りなければならなかった。
「なにあんた。そんな恰好で」居間に入って来た私に、母が驚く。
「詩織のせいだよ。扇風機も止めて、部屋も閉め切って」
 冷蔵庫から麦茶を取り出して、ラッパ飲みする。母は下品だと注意する暇もない。
「昨日は冷房つけなかったの?」
「タイマーで切れるようにしてたよ。それで扇風機も……」
 そこまで言って思い出す。両方ともタイマーだった。母はそれを察して、ふんと息をつく。「結局、寝坊なのがよくなかったのね」そう言われ、むっとした。
麦茶をしまって、食卓につく。重たい頭を卓の上で転がした。
「事情があるんだよ。なんだか変な夢見て、寝つけなくて」
「どんな夢?」
 そう訊かれて、答えられない。夢の内容をすっかり忘れてしまった。祖母が関係していた気が、なんとなくするだけである。思い出したという言葉を捻りだそうとするみたいに、自分の頬をぐにぐにと触ってみるが、ちっとも思い出さない。うまく寝れなかったのか、ぐにぐにとしているうちにまた意識がふわついてきた。
「こら、そんなところで寝るな。シャツも脱いじゃいなさい」
 母の声が、重たい頭によく響く。鬱陶しいな、と思った。部屋に帰ろうとして立ち上がると、またふらりと体が傾いた。すわやと飛び出した右足が、なんとか姿勢を保つのに成功する。母はびっくりした顔をして大丈夫かと訊いてきたが、私は笑って「大丈夫」と短く言うだけで、さっさと居間を出た。肌着を洗濯機に放り込んで、タオルで体を拭き、そのタオルも洗濯機に放り込む。ほっと息をついたところで、後ろから母が声をかけてきた。
「今日はどうするの?」
「えっ、なんだって?」母の言葉がうまく聞き取れなかった。
「いや、なにか用事があるのかって」
「あっ、うん。あるよ」
 頭がうまく働かない。意識に、薄いもやがかかっているようだ。
 部屋に帰ったら、まず冷房をつけた。そのうえ、扇風機も働かせる。そう間もなく、室温が下がって来た。しかし服を着替えているあいだも、やはりふらつく。ズボンを履くのもずいぶん手間取ってしまった。
 部屋のカレンダーには、今日の予定が書いてあった。学校の友達と遊ぶ約束をしてしまっている。私は大きくため息をついて、ベッドに倒れ込んだ。まだ少し湿っているのが気持ち悪くて、体をもぞもぞと動かして、背中に掛け布団を敷く。ようやくのこと落ち着いたとき、眉間に深くしわが寄っているのに気が付いた。今日は学校の友達に会うのはやめておいたほうがいい気がする。体調が悪いこともあるし、機嫌が悪いのもあるし、なによりまったく会いたいと思わない。
 しかし、家にいたいとも思わない。一階に行けば母と顔を合わせるし、部屋にいても落ち着かない。姉のことを考えるのは、きわめて不愉快だ。部屋にある姉の所有物すら見たくない。この部屋にいるだけで、なんだか息が詰まるような気がする。喉に何かが引っ掛かったように、呼吸がしづらい。それにさっき、母に用事があると伝えてしまった。
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