第5話

文字数 2,549文字

 すると、急に背後でがさがさと音がした。
 振り返ると、後ろにある生垣のツツジのすきまから、男の子が這い出てきた。服が汚れている。彼はそれを手で払う。体の裏も眺める。そうしてまた払う。彼は最初私には気づいていないようだったが、急にはっと私に気づいて、怪しむような目つきをした。しかし怪しいのは、疑いなく当人である。「なんだよ、誰だよ」という声は一丁前に鋭い。
「いまどこから出てきたの?」
 なだめるように、にこっと笑ってみせた。彼は二、三秒ほど私の顔をじっと見てから、一歩退いて、自分が出てきた穴を指差す。狭い穴だ。ここかと改めて訊くと、そうだと言う。それから彼に促されるままに、穴に頭を突っ込んだ。まず落下防止用のフェンスが見えて、その手前に土手をスプーンでえぐり取ったような空間があった。
「秘密基地ってこと?」
 頭を引き抜いて、言った。彼は照れ臭そうに笑って、目を逸らす。
 私は俄然おもしろくなってきた。この手の遊びは、もちろん田舎でもやった。小雨の降る日に山に入り込んで、屋根になっているところを探して、そこを基地にした。石をどけたり、木の葉を外に出したり、掃除をして、いらなくなった棚を運び入れたり、テーブルを用意したり、ビニールシートを敷いたり、住みやすいように整えるのは楽しい。秘密基地とは言いながら友達をできる限りたくさん呼んで、よく遊んだ。
「他に仲間はいるの?」
「いや、いないよ」
彼はちょっとばつが悪そうにした。まずいことを訊いたかもしれない。
「お前こそどうなんだよ。一人でこんなところをうろうろしてさ」
 私は答えに迷った。秘密基地を共有している人は他に誰かいるのかという意味で訊いたのに、友達がいないのかという意味に取られてしまったらしく思える。いるとも、いないとも答えづらい。ええと、その、と目をきょろきょろさせていたら、
「悪い。変なこと訊いたな」
 と謝られた。私は苦笑いで応える。彼は私に気を遣ったのか、他にも秘密基地があるから案内すると言い出した。私は彼のあとについていく。
 歩きながら、私は秘密基地のことをいろいろ質問した。どうやって見つけたのか、どんな風に過ごしているのか等々。簡単にまとめると、見つけたのは偶然らしい。公園の裏に続いているフェンスを追いかけていたら、あの空間があったのだ。元々は、誰かが掘ったものかもしれないと彼は言った――土のえぐれ方が、不自然なのだ。しかしあそこを自分以外が使っているのは見たことがないから、昔に誰かが使ってそのままにしておいたんだろう。涼しいから、たいていはあそこで本を読んで過ごしている……。なるほど、読書かと思う。たしかに日陰になっていたから、夏場は特に過ごしやすいだろう。
 私たちは夕方に別れるまで、お互いの名前を知らなかった。彼とは自己紹介もしなかった。名前どころか、年齢とか、学校とか、ぜんぶわからない。私たちはただ川に沿って歩き回ったり、走り回ったり、服についたくっつき虫を払ったりしていただけだ――あっちに何かありそう、こっちはどうだろう。下りてみようよ。ちょっと休もうよ……。
 だが、それで思い出した。そういえば、昔はこうだった気がする。
 人と会った時に、自己紹介をしあうようになったのはいつだろう。知らない子と出会った時はいつも、まず最初になにかして、それからお互いに名乗り合うのがふつうだった。たとえば砂場で遊んでいたら誰かがやってきて、私にスコップを貸してほしいと頼む。それから一緒に掘り始めて、小さいバケツで建物らしいものを作ったりしてみる。その知らない子が水路を引いて家のそばに池をつくってくれたので、私はその子の家も建ててあげる。そのうちに日が落ちて帰らなければいけなくなってから、自分の名前を告げるのだ。まるで、合言葉みたいに。
 私たちがようやくお互いのことを話したのは、日も暮れて、公園に戻って来たときだった。ブランコに二人並んで座って、改まって自分のことを話すのは変に気恥ずかしい。それまで大騒ぎしていたのに、向こうも急に黙り込む。のっぺらぼうのままでいたほうが、気楽なのではないかと思うほどだ。
 私と彼は驚くほど似ていた。二人とも小学五年生だし、しかも、彼もまた春にこの町へ引っ越してきたという。性別や出身地はもちろん、学校も違うが、互いに春からの転校生だというだけで、似ているというには十分すぎる。それならと思って、
「お盆はどうするの?」
 と訊いてみた。私が期待したのはもちろん、帰省するという一言である。ところが、彼はちょっと首を傾げて、墓参りだけだと言った。彼はこの町よりもずっと都会からここへ越してきた。住んでいたのは借家だったし、祖父母もみんな亡くなってしまったので帰る家もないという。
 それを聞いて、とても同情した。私は恵まれているなと思った。私が住んでいた家にはいま、近しい親戚が住んでいるし、祖母の家も大叔母が引き継いで今も残っている。父方であれ、母方であれ、祖父母が両方とも亡くなっているのは私も同じだが、故郷に帰る家があるというのはありがたいことだ。
 母方の祖父母は私が幼稚園の頃に、父方の祖父は私が産まれる前に、そして祖母は二年前に亡くなった。二年前の冬だ。雪が降っていた。
 私は祖母の死を目の前に見た。玄関で呼びかけても返事がないので、裏へ廻って覗くと、丸くなって倒れている。私は泣くでもなく、叫ぶでもなく、近寄るでもなく、魂でも抜かれたみたいに呆然としていた。しかし急に吐き気がしだした。体に巣くっていたムカデが私の口から飛び出そうとするような、不気味な感覚に襲われ、がくがくと足が震えはじめた――昨日まで確かだった命が、ぱちんと割れて、まるで始めからなかったみたいに、どこかへ消えてしまったのだ! 私はあの儚さを、もうかすかにしか思い出せない。そうやって底へ底へ押しやっておかなければ、きっと人はまともではいられないのだろう。
 人は死ぬ。死んでしまう。私は亡くなった人のことを考えるたびに、妙な気分になる。両親はもちろん、ここでこうしている私たちもいずれ死んで、夕暮れの公園で語らう小学生の話の種になるのかもしれない。しかし誰もみな正気に生きている。不思議でたまらない。
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