第3話

文字数 2,383文字

 母と田舎との対立は、そもそもは母と祖母との対立にさかのぼる。
 その対立の物語は恐らく母でも父でもない、親戚の誰かかもしれない、あるいは一人ではなく、複数、しかも不連続に、途切れ途切れに、聞かされたことがある。――お前の母親はよそ者だ。父親とは町で偶然出会った。そして運悪く婚約することになってしまった――お前の母親は金が不足だからといって、父親を町の工場で働かせた――お前のばあさんはそれをよく思わなかった――お前は今ここで住むことができているが、それはみんなばあさんの御蔭で、危うくすると別の場所に連れていかれていたところだ……。
 母と土地の因縁は、私が生まれる以前からのことである。その因縁は、すっかり染み込んで、今はもう取ることもかなわない。母はあの土地を憎んでいる。ここへ越してきたのも、名目上は父の転勤でも、実際はその事情が大きい。
 私たち姉妹がまだ小さい頃、周囲の大人たちはそのことをあまり口にしたがらなかったが、祖母が亡くなってからは、酒の席につくたびに、私たちのことを不幸な少女として扱うことがあった。可哀想にな、と。母親があんな女ではな、と。
 ところへ、階下から母の呼ぶ声がした。
 階下へ下りて食卓につくなり、母はまずビニール袋の件で私をたしなめた。行ってくれるのは助かるが、あんなに乱暴にされたんじゃ意味がない。預けておいた財布まで冷蔵庫の中で冷えていた。これからは気を付けてもらわなくちゃ困る、という。無意識に尖らせていた唇を、母に突っつかれた。しゅんとしていたら、姉がにやにやしている。嫌な奴だ。
 それから、箸がかちかちと鳴って、もぐもぐとかすかに音がし出した。会話はない。母の機嫌が悪いからだ。なんとなく圧力を感じる。耐えかねたので、「詩織、今日はどうするの」と質問してみた。すると姉は「友達とプール」と一言答えた。どこのプールかと訊くと、国道を越えて自転車で少し行ったところにある丘の上だという。公営のものだ。たしか、私も夏休み前に友達とその施設の話をした。この辺りでは夏は大抵そこへ行って遊ぶというから、是非行ってみたいと思っていた。どうやら私より先に、姉が行くらしい。なにか不満である。
「そのプールにね、ウォータースライダーがあるんだって」
と姉が言った。私はちょっとびっくりする。
「え、あんた、スライダーなんて滑れるの」
「馬鹿にしないでよ」姉はむっとして答える。
「あ、いや、ほら、小三のとき、裏山の滝に行ってさ。飛び込まなかったじゃない」
「知らないよ。うるさいなあ」
 姉はいらいらした様子でご飯を口に運ぶ。怒らせるつもりはなかった。ごめんと謝るが、姉は聞こうとしない。何を言ってもまた「はあ」としか言わなくなった。その態度には内心腹が立ったが、時折「はあ」を挟まれながらも、こう弁解した。
「詩織がスライダーを滑るなんて、なんだか意外な感じがしたから。そういうの、前は怖がって避けてたでしょ。馬鹿にしてるんじゃなくて、すごいなと思ったの。詩織は、この町に来てからどんどん成長するみたい」
 もちろん、姉の答えは決まっている。「はあ」だ。しかしここで怒ると、せっかくの弁解が水の泡になるから黙っておく。そしてまた箸と皿と口の音しかしなくなった。姉はつんとして、不愉快を隠しもしない。
 私は話題を変えるつもりで、
「あの時、光子さんも一緒だったよね。今どうしてるんだろう」
 と言う。すると、姉は急に怒り出した。いつまで蒸し返すつもりなのかと私に怒鳴る。こうなったらもう姉は手に負えない。
「沙織、帰ってきてからずっとうるさい。帰省はしなきゃならないとか、ずっと言っててさ。別に帰らなくてもいいじゃんって私が言ってるのに、どうしても行かなくちゃって聞かなくてさ。しつこすぎ。気持ち悪い」
「ちょっと、詩織。あんた何を急に……」ちらと母を見る。
「ねえお母さん、帰省なんかやめようよ。いいじゃん別にさ!」
「ほんとに、やめなよ……」
 姉はまだぐちゃぐちゃと騒ぐ。私は必死になって止める。数回応酬があって、とうとう母が雷を落とした。「うるさい!」と怒鳴られて、姉がびくっと震え、しゅんとする。私も俯く。俯きながら、姉の思慮のなさを恨んだ。母に帰省の話をするなんて、どうかしている。案の定、お小言が始まって、昼ご飯どころではなくなってしまった。姉は皿まで食べそうな勢いでご飯をかき込んでしまうと、さっさとプールへ逃げてしまった。残された私は、母の不機嫌を一身に食らう羽目になる。とばっちりだ。
私は身を小さくしながら、光子さんのことを想った。
 彼女は弓内光子といって、田舎では佐山の光子さんとして通っている。光子さんのお姉さんが佐山家の次男のところへ嫁いできたのと一緒に、村に引っ越してきたらしい。
 光子さんは、わははと大きな口を開けて笑う人だった。だがそれでいて、決して粗野ではない。物事を俯瞰して見ているような、理知的な目をしていた。祖母からも気に入られていたように思う。
 彼女は故郷ではおそらく唯一、私と姉を確実に識別できた。私と姉が入れ替わって滝つぼに飛び込む通過儀礼をし終えたときも、実は光子さんはそばに立っていた。光子さんはじっと見ていた。私がみんなに持ち上げられて、運ばれて、滝つぼに落とされて、泣きながら這い上がってくるときも、ただじっと見ていた。
彼女は私の顔をタオルで包み、両頬を挟むと「嘘つき」とにやりと笑った。
 胸を一突きにされたような鈍い痛みを覚えた。私は恐ろしくなった。それと同時に、光子さんを一目置くようになった。世の中にはすごい人がいるんだなと思った。「よそ者なのによくできた人だ」とみんな言っていたし、田舎でずっと肩身の狭い思いをしてきた母も、似た境遇の光子さんとは打ち解けていた。光子さんは薄暗い田舎に射した、一筋の光である。
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