第21話

文字数 3,545文字

 日は落ち、そろそろ公園へ帰らないといけない。だが、どうにも気が進まない。
 それで左へ曲がるべきところを、右へ行った。ちょっと遠回りをするつもりである。商店街より奥はまだほとんど足を踏み入れたことがないが、まだ駅に近いから迷う心配はない。曲がってすぐにある月極駐車場の向かいには、多様なテナントの入ったビルがあって、進学塾やら、英会話教室やらがひしめいていた。
 学校で授業もないから、英語についてはなんの知識もない。中に入って、エレベーターホールに置いてあるパンフレットをひらくと、Helloと書いてあった。さすがにこれぐらいはわかる。コンニチハだ。しかし使ったためしがない。いったいいつ使うんだろう。日本にいるんだから、日本語を使えばいいじゃないか。海外旅行の予定があるわけでもあるまいし。
「カオリ、何やってんの?」亮太君の声。
 驚いて振り向くと、いつの間にか後ろに彼が立っている。私はすぐに冊子を閉じて、後ろ手にスタンドに戻してしまった。鈍感な彼は気づく様子もなく、ホールの中をきょろきょろと見回している。
「ちょっと暑かったから、涼もうと思って……」
「ふうん。俺、いまさっき終わってさ、堤防に行こうとしたらお前がいたから、ちょっとあとをつけたんだ。どこに行くのかなと思って」
「尾行なんて、趣味悪いよ」言えた義理でもないが、一応言う。
「カオリも塾に通うことにしたのかと思った」
「ちょっといいなとは思うけど、やっぱりいいよ、私は」
「入ればいいのに」
「駄目だよ。私には、向いてないよ」
 そう答えると、亮太君は少し寂しそうに笑った。「はっきりしてるな」
 亮太君はそれから、英語について私に講義しだした。主語がどう、述語がどうという話だ。特に日本語と英語の違いの話はおもしろかった。英語は自己を中心とした語順となっていて、たとえば、私は、持っている、ペンを、というようになるが、日本語ではそうはならない。それに、日本語には主語というものはない。主題があって、その説明があるばかりだ。動詞にもそれがあらわれている……云々。
 私は亮太君が話すのを聞きながら、「ありそうなことだな」と思った。無論、言語のことではない。クラブとの諍いのことである。彼はきっと、なぜスカウトを受けてくれないのかと問われたら、自分が持ちうる理由のすべてを相手にぶつけようとするだろう。スポーツに興じるのは愚かだと、私に語ったことがあるように。
 ビルを出てすぐ、私は人目を意識した。向かいの駐車場にいる男性が、私たちのほうを一瞥して、つまらなそうに煙草を吸いだす。横の銀行から出て来た女性がこっちを見て、目が合った私に薄い笑みを向ける。すれ違う人が、私の顔をちらと見た気がする。私はすっかり小さくなってしまった。亮太君があれこれ話しかけてくるが、少しも頭に入らない。
「どうしたんだよ、さっきから変だな」
 そう指摘されて、たしかに変だなと自分でも思う。しかしそれで自意識が消え去るわけではない。考えてみれば、亮太君と町を出歩くのは初めてのことだ。
私は彼から一歩距離をとって、ちらちらちらと周囲に目を向けて歩く。例の米屋を通り過ぎるときなどは、よほど注意して、彼の陰に隠れるように頭を低くしたぐらいである。私は横を歩く亮太君を見る。彼はもちろん堂々と歩いている。
 私の中にあったのは、異性との関わりに伴うロマンティックな羞恥心ではない。私は単に、彼と歩いているところを知り合いに見られたくなかっただけだ。二人の姿が見られるとは、それはいわば、沙織とカオリの衝突である。衝突すれば、現実が勝つに決まっている。そのとき、私はカオリではなくなる。私の中にあるのは、その恐怖心だった。「嘘つき」頭の中でそんな言葉が鳴って、次第にその声がだんだんと亮太君のものに近づいていく。私に突き刺さる視線のすべてに、非難されている気がした。このときもし、沙織という名前を呼ばれていたら、心臓が止まっていたかもしれない。
 やがて商店街を過ぎた。堤防への坂道をのぼる頃、私はようやくほっとしたが、気がついてみれば亮太君はしばらく前から黙っている。もう私のほうを見ていない。慌てた。
「そういえばね、亮太君が塾に行ってからお餅を食べたんだよ。さっき通ったでしょう。佐藤米屋さんっていってね、指に乗るぐらいの小さなあんころ餅を売ってるの。そこのおじさんが変な人でね、お世辞だってバレバレのお世辞を言うの。前に行ったときもそうだったから、きっといつも言ってるんだね。あれも商売なのかな。あれで売れるなら私にもできそうだけど。小学生が褒めてくれるお店、……ってちょっといかがわしいね」
「そうだな」と亮太君。坂道をのぼり切って、公園へ足を向ける。
「一パック六粒だったんだけど、三粒に分けて売ってくれたの。だから、いい人ではあるんだけどね。あ、そうだ。夏場にはあんまりお餅が売れないらしいの。で、最近冷たいお菓子を作ったっていうんで、食べさせてもらったんだよ。あのねぇ、あんこを丸くして、それを寒天で包んである、ほら、細胞みたいな、あんなお菓子。細胞っていうとなんかアレだけど、試食したらすごいおいしくて」
「ふうん」と亮太君。彼の声も、そして私の声も、すぐに空気に溶けて消える。
「帰省のおみやげにいいなって思ったんだけど、もう買ってあるし、失敗したなあと思って。あ、そうだ。あのねぇ、宣伝を頼まれたんだけど、亮太君もよかったら買いに行ってあげてよ。あの、ほら、かわいそうでしょ、おじさんが」
「はあ」公園に着いた。二人並んでブランコに座る。
「あのね、あそこのお餅はあんまり有名じゃないんだけど、商店街をよく使う人からは評判なの。すごくおいしいし、その、やっぱりお土産にすると喜ばれるみたい。それから、おいしいといえばトンネルを出てすぐにある肉屋のコロッケ。それから床屋さんの前にある駄菓子屋。あ、駅前のデパートの食料品売り場は、平日の朝の時間帯にはいつもハムかウィンナーの試食をやっててね、たまに狙いに行くときがあるんだ」
「カオリ、もういいよ」
 彼がぴしゃりと私の言葉を打ち切った。そしてこう続ける。
「この町にもいろいろあるんだな」
 私はそれで、口がきけなくなった。彼が話に興味のないことはすぐわかったし、その簡単な返答に敵意にも似た感情が淀んでいた。「嘘つき」また響いてくる言葉に、ぞっとする。光子さんが私の頬を両手で挟んだあの日、水が滝つぼに流れ落ちる音を背景に、私は嘘つきになった。私は一体いくつ、彼に嘘をついたのか、もう、わからない。
亮太君はいい加減、気づきつつある。
彼が期待するほどには、私はこの町のことが嫌いではないことに。
私という存在が見えればみえるほど、自分と同じところがひとつもないことに。
私という存在が、彼に孤独しか与えないことに。
「餅を食ったあとは、どこに行った?」
亮太君は寂し気に笑う。私を気遣っているのだとすぐにわかった。その後はずっと散歩してたよ、と言おうとして、やめる。嘘つき、と内心で呟く。嘘つき。嘘つき。
「そのあとはね、例のサッカークラブの子と会って、一緒にサッカーしたよ」
「知り合いだったのか」亮太君はちょっと驚いたようだった。
「違うよ。低学年の子たちでね、スパイのつもりで参加したの。前に公園に来たあの男子はいなかったよ。夕方まで、ずっと練習してた」
「カオリって変なやつだなあ」
「亮太君のことも、噂になってたよ。悪い噂」
「そう」
「でも、話を聞く限り、やっぱり逆恨みだと思う。だって入りたくないものを、入りたくないって言っただけだもんね。単純な話なんだよ」
「そうだろ」
「でもね、サッカーを一生懸命してる人に、スポーツするのは愚かだなんて言っちゃ駄目だと思う。亮太君にとってはそうでも、あの人たちはサッカーが好きなんだから。ううん、仮に亮太君の意見が正しいとしても、あの人たちがスポーツをするのは馬鹿なことでも、やっぱり言っちゃ駄目なんだよ」
「俺が正しくても?」
「そうだよ。だって、亮太君だって間違えることはあるでしょ。正しい人が正しいことを言うときって、いつもそれを忘れてるよ。私たちはみんな間違えるんだから……」
 私の声は途中から震え出した。亮太君は返事もせずに、じっと黙っている。
 私と亮太君が次に交わしたのは、別れの挨拶だった。今日はありがと、帰省、気を付けていってこいよ、と彼が言って、私は、うん、わかったばいばい、と言った。ちょっと歩き出して、後ろを振り返った。だんだん遠ざかっていく彼の背中。
たぶん、会うのは今日が最後なんだろうな、と思った。なぜって、彼と再会するための合言葉を、本当の名前を、結局私は伝えなかったからだ。
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