第27話

文字数 3,633文字

 だが、父には申し訳ないことに、私は私のやりたいことがわからない。
 遊びに出かける気もしなければ、家にいる気もせず、公園にも行かなかった。勉強もせず、ただベッドで干物みたいに寝転ぶ。翌日も、翌々日も、そんな風にして過ぎた。
 夏休みの宿題は既に終わらせた。とはいえ、全部ではない。最後までどうしても残るものがある。日記だ。書くこともないのに、毎日一度は机に向かって、嘘の記録をつけた。しかしとうとうその種も尽きてしまい、どうしようかと悩んだ。
 それで急に思いついて、両親の部屋へ行ってアルバムを引っ張り出した。あまり写真撮影はしない家族だが、要所要所の写真がしっかりと保存されている。赤ん坊の頃の写真もある。病院で、私たち姉妹と母が三人揃って写っていた。写真の中央に来るのは私たち姉妹のほうで、母の顔は左上に切れていた。
「今日はお母さんとお父さんと一緒に昔のアルバムを見ました……」
 と、日記につける文章を考える。もちろん横に両親はいない。「自分の赤ちゃんの頃の写真があってびっくりしました」と書こうかと思ったが、何だか間抜けに思える。もっと面白い写真はないのかと探してみるが、特にない――どこにもばあちゃんが写ってない――誰かが囁く――昔の写真なのに。一体いつなんだ。祖母と母が、和解したのは。
 私はアルバムから手を離す。両親のベッドに、すとんと落ちた。
 私はずっと長い間、光子さんから教えられたことを忘れていたのに気が付いた。母と祖母の仲違いの原因は、一体なんだったのか。一体なにを、私に隠しているのか。その問いに思い当たったとき、私は自分が急にアルバムを見る気になったのを不気味に感じ始めた。まるでなにかに、導かれている気がする。そんな風に考えるのは、私に迷信家の素質があるからだろうか。
 私は居間にいる母に「もっと昔の写真はない?」と訊いた。
「いつ頃の写真を探してるの。というか、どうしてそんなのが必要なの」
「ちょっと学校の宿題でね」母はそう言いさえすれば、大概納得する。
「沙織たちが生まれる前なんて持ってるならお父さんだけど。でも実家に置いてあるんじゃないかな。この前帰ったときに見ればよかったのに」
 そういえばずいぶん昔、父が小さかった頃の写真を祖母に見せてもらったことがある。そのアルバムはたしか祖父の部屋にしまわれていたと思う。しかし帰省したときには部屋はすっかり片づけられていた。まさか故意に捨てはしないだろうが、あの分だと所在はわからなくなっているだろう。もちろん、大叔母に連絡してくれと頼むわけにもいかない。
「お母さんは何か持ってないの?」
「あまり写真は撮らないから。昔はお父さんがカメラを趣味にしてたけど、近頃はめっきりね。仕事が忙しくて、それどころじゃないし」母は少し寂しそうにした。
「ビデオ撮影とかしてないの」
「それこそないと思うけど。ともかく、お父さんが帰ってきたら訊いてみなさい」
 わかった、と返事をして部屋に戻ろうとすると、母に呼び止められた。
「それとね沙織。お父さんはああいう風に言ってたけど、お母さんはやっぱりそうは思わないの。沙織のことを信じないんじゃない。ただ、良い学校に通うことの大事さは沙織が経験してないことだからわからないでしょ。お父さんは、沙織が望むことがスタート地点だと言ってたけど、それをスタート地点に選ぶこと自体をお母さんはサポートしたいの。もしお母さんが私立の話をしなかったら、沙織は進学先なんて考えもしなかった。違う?」
「お母さんは知ってるの? 良い学校に通うことの大事さなんて」
「当たり前でしょう。あんな田舎町に、ずっと住んでいたんだから」
 私はなんとも返事せず、部屋に帰った。
 それからしばらくは、両親の部屋にあるパソコンで地元のことを調べた。昔はかなり栄えていた時期もあったらしいことや、自治会による集落維持の工夫により人口減少に一定の歯止めがかかったこと、過去にあった工場建設による汚水問題、集落の水道管老朽化問題等々、知らないことが山ほど書いてある。それで、小さい頃、折々に目にしてきた大人たちの不思議な行動や言動が、いくらか腑に落ちた。
 夕飯の時間になっても、父は帰らなかった。母によれば、今日も残業らしい。
 父の会社は、過去にいくつかの不祥事を起こしている。地元で起きた汚水問題もそのひとつだが、社員の過労自殺、パワハラによるPTSD、鬱等々、労働環境にまつわるものが多い。今度の転勤は新工場の要職への栄転だと聞いているが、どうも胡散臭く感じられる。
「労働基準法では」と私は言った。「労働時間は一日八時間なんだって」
「それはそうだけど、なんにでも例外はあるのよ」
 母は淡白に済ます。私はその態度が気に入らなかった。父をその状態に追いやったのは自分なのに、なぜそう澄ましていられるのだろう。姉は労働基準法という固い言葉が出て来たので、できるだけ関わらないように身を小さくしている。私もついさっきインターネットで調べたばかりだから、詳しいことは知らない。しかし一日八時間までという条文ははっきりと見た。父は朝早くに出て夜遅くに帰るのだから、八時間どころではない。それ以上働かせて当たり前みたいな顔をしているんだから、以前よりもはっきりと確信をもって、悪徳企業と呼んでいいだろう。
「駄目な会社だね。こんなに働かせるなんて、ほんとに駄目な会社」と私。
「そうね、体のことはいつも心配」と母。
 またいらっとする。だから、働かせたのはあんたじゃないか。
「あんなところに行かなくてもいいように、勉強は大事なのよ」
「ねえ、それよりさあ」
 姉が不穏な空気を感じ取って、ひときわ大きな声を出した。
「今日はね、自転車で隣町のほうまで出かけて来たよ。行く途中で佳奈ちゃんが田んぼに自転車で突っ込んじゃってさ、全身どろんこ。怪我はなかったんだけど、どろんこになったのをいいことに、田んぼでばちゃばちゃ遊びだしちゃって、そばにいたおじいさんに思いっきり怒られちゃった」
「泥まみれで隣町まで行ったの?」と私。
「まさか。一度佳奈ちゃんの家に戻って着替え。あれはマズかったね、って大笑いよ」
 私は、姉の思い出話に興味を持てるようになっていた。姉といっしょになって笑う。しばらく話した後で、姉は思い出したように言った。
「佳っていう漢字は、美しいとかすぐれているって意味らしいよ。佳作とかっていうでしょう。今日それを聞いて、昨日のお父さんの話を思い出してさ、私ならカオリにその漢字をあてたいな」
「佳織か。私は香るほうを想像してたけど、それもいいね」
「詩織。沙織。佳織。三つ子ならよかったのに」
「そうかもね」と、私はほほえんで、すぐに続けた。「あ、でも、佳織は一人っ子だよ」
「なあにそれ。あぁ、そういう設定でやってたってこと?」
「そう。とっさに答えちゃって。だから三つ子は駄目。一人にまとめないと」
「三人を合体させるってこと?」
「ううん、私たち二人が合体するの」
 私たち二人がそう話しあって、笑っていると、母が、
「馬鹿なこと言ってないで、はやくご飯食べなさい」
 と割り込んできた。はあ、と気の抜けた返事をして、夕飯のコロッケを口に放り込んでいく。母はもう食べてしまって、台所に自分の食器を下げていった。興味ある話題を中絶されて、気分が悪い。姉と目が合う。それからちょいちょいと顔を上に向けた。「部屋で続きを話そう」という意味だ。くすくすと笑い合う。
 そこへ母が戻って来た。「本当に塾には行かなくていいの?」と言う。私たち姉妹はいい加減うんざりして、ほとんど同時にため息をついた。ついたあとで、しまったと思ったが、母は意外にも怒っていない。つらそうに眉が曲がっている。
「私立を受験するなら、もうそろそろ準備しないといけないんだよ。本当にいいの?」
「いいよ別に。めんどくさいじゃん」と姉。
 次に、母は私を見た。どきりとした。言葉が出ない。こんなときに、また例のどっちつかずが顔を見せている。私立へ行くか、私立へ行かないか。塾へ行くか、塾へ行かないか。無論、行きたくないと答えるのが正直なところだ。だというのに、なんだかその回答にいまだ不満足を覚える。正しいとは思えない。だが、塾に行くべきだとも思わない。
 私は自分のどっちつかずが苦しい。はっきり言い切れない自分が嫌になる。
「沙織も行きたくないって言ってるよ」
 と姉が言った。私はびっくりした。
「お母さん、ずるいよ。そんなに迫ったら何も言えなくなっちゃうじゃない。沙織は私と違って、気を遣っちゃうんだから。だから私が言ってあげます。塾には行きません」
 姉はまじめな顔をしてそう言い切ると、立ち上がった。「ほら、行こう」と、姉は私の腕を引っ張る。食器を台所に運んで、すぐに自分たちの部屋に逃げ帰った。階段をのぼりながら、姉が言った。「いいんでしょ。行きたくないんでしょ」と訊かれ、私は頷いた。
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