第25話

文字数 2,725文字

 それから、私たちは故郷を離れた。実際の滞在はたった一日だったが、私はもう十分だと思った。姉はまたぎゃんぎゃん泣いた。光子さんに繊細だと評された女だが、サービスエリアで昼食にカレーを食ったらご機嫌になって、車に戻ったらすぐにグースカ寝始めた。能天気でうらやましい。私の膝は姉の枕にされた。母も、助手席で寝息を立てていた。
 私は姉の頭を撫でながら、父に訊いた。
「ねえ、どうしてお母さんとばあちゃんはケンカしてたの?」
 少し沈黙のあったあと、「知ってるだろ」と父が言った。たしかに、私は知っていた。しかしその物語は、間違っているとわかってしまった。いや、間違っているというより、嘘だったのだ。父はもちろん、母も、それから光子さんも、私に嘘をついている。何度も聞かされた物語は、むしろ何度も聞かされてきたがゆえに、今は作為的なものを感じてしまう。何かを誤魔化されている。しかしそれ以上、追及することはしなかった。触れるのが、怖かった。
 家に帰りついたのは、日付が変わるより前だった。私たちはすぐにベッドに入り、ぱっと一瞬だけ間があって、目を開けると朝になっていた。寝た気はしないが、時間相応にトイレへ行きたくなって、よろめきながら階下へ下りる。用を済ませて居間へ入ると、母が上機嫌に「おはよう」と挨拶してきた。
あたたかな空気。私は窓から入る白い光に目を細めながら、久々に学校の友達と遊ぶ気がむらむらと起きてくるのを感じた。まるで、眠っているあいだに、ひとつ世界をまたぎ越したみたいだった。それを意識した途端、友達と遊びたい。みんなと会いたい。そういう気持ちが溢れて来た。それで私は、毎日遊び呆ける姉の背中にくっついて、同じように毎日毎日遊び呆けた。楽しかった。楽しかったから、私はすべてを忘れた。
 じきに夏休みも終わりである。
 始業式を恐れて、夜になるのが大いに嫌になり始めた頃のこと。遊びに出かける前に何気なく覗いた郵便受けに、大叔母からの葉書が届いていた。なんの用かと思って読んでみる。しかし、なにか具体的に用事があるわけでもなさそうだ。相変わらずの角ばった手蹟ではあったが、長たらしい挨拶のあと、いつでも帰ってきなさいと結んである。これなら別に母に見せても構わないような気がした。それより困ったのは、はがきから漂う故郷のにおいだった。私は自然と、祖母のことを思い出した。過去が追いかけて来るような、不気味な圧迫を感じた。
「そんなのさっさと置いてきなよ。待ってるよ」
 姉はそれだけ言って、隣家の前に停めてある軽自動車のほうへ走っていった。私は慌てて玄関の靴箱の上に葉書を放り出し、姉を追いかける。その日は、友人のお父さんに連れられて、近くにあるキャンプ場へ行く予定をしていた。車では既に、姉も友達も待っている。私が乗り込んでくると、みんなが声を合わせて「遅い」と言った。そして笑う。
 これまでと変わらない楽しい雰囲気だったが、私はなぜかそれに乗り切れず、変にもやもやしていた。しかし今更断ることもできない。どうせなら遊んで全部忘れてしまおう。そういう風に意気込んでそのまま出かけて行ったのだが、やはり面白くない。面白くないどころか、だんだん嫌になって来た。川遊びをしているみんなから離れた場所にある丸太橋に座る。
「どうしたの、元気なさそうな顔して」
 そこへ、姉が近づいてきた。後ろで髪をまとめている。私はもう、川で遊んでいても髪をまとめる必要もなくなってしまった。姉は私の横へ来て、つま先で水面を撫で始めた。そして蹴り上げる。私は姉が掃いた扇形と、飛び散ったいくつもの水滴がふたたび川へ還っていくのをあいまいな意識で捉えていた。割れていた水がすぐに静かになって、私の顔を映し出す。一瞬、隣に姉の顔が並んだ。
「あっ、見てあそこ。飛び込みやってるよ」と姉が指を差した。
 目の前には七メートルほどの堰堤があって、そこから水が流れ落ちてきていた。左右から木々が伸びて来て、緑の帽子をかぶっているようである。
 その上には何人かの子どもの姿があって、ぼちゃん、ぼちゃん、と体を落としている。じっとその子らを見ていると、誰かがみんなに担ぎ上げられて下に放り投げられた。「やめろよぉ」それを聞いて上にいる子は大はしゃぎしている。落とされたほうは脇道からわーっと堰堤に上っていって、今度は別の子を叩き落した。叩き落された子は水から浮かんで来て面白そうにしている。他の子たちも叩き落されるのをせがんでいる。またぼちゃんと水の弾ける音がする。またする。またする。またする。そして最後の子が自ら飛び込む。そうして、みんなして笑っている。
「私も行ってこようかな」と姉が言う。どきりとした。
「あんた、あんな高いところから飛べるの?」
「馬鹿にしないでよ、昔とは違うんだから」姉はにっと笑う。
「そう、本当にもう入れ替わらなくってよくなったんだね……」
 ぽつりと漏らしたその言葉を、姉が聞き過ごすはずはなかった。
「沙織、この前は本当にごめんね。まだ怒ってる?」
「この前って?」
「私が髪を切っちゃったこと」
「別に……」
 怒っていない、という言葉は出ない。姉は不安そうにした。けれど、私は本当に怒ってはいなかった。もやもやはするが、怒ってはいない。姉は必死そうに言った。
「ね、今からでも髪型揃えよっか。今までずっとそうだったんだもん。あれからもう半月も経つんだし、お母さんだって見逃してくれるよ。ね、明日にでも」
 私はただ、姉にそう言って欲しかっただけだ。そのために姉を困らせた。祖母は姉のことを「まっすぐでない子」と評したが、あれは間違いなのではないか。まっすぐではないのは、むしろ私ではないのか。
「私たち、全然似てないね」
 思わず、そう呟く。もちろん、顔は瓜二つ。でも、他は何もかも違う。今は、髪型も違う。もちろん表情も違えば、服も違うし、性格も違うようだ。似ているのは顔だけである。光子さんが私たちを同じだと思ったことはないと言ったのは、もっともだ。これまではお互いの区別をつけるために差異ばかりをあげつらって来たが、ふと立ち止まって見てみるとどこにも同じところがない。ひどく、空しい。
「なあに、突然」姉は笑った。
「いや、光子さんに言われてね。それをちょっと思い出しただけ」
「似てないって言われたの?」
「同じだと思ったことはない、って言われたの。だから、なんとなくね」
「そんなの、前からわかりきってるじゃない」
姉は簡単にそう済ませた。そうして、こう続けた。
「だから最近私とずっと一緒にいたの?」
 声の調子は、気楽である。しかし、私は目が覚めるような思いがした。
私は、恐ろしかったのだ。
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