第2話

文字数 3,194文字

 ビニール袋を提げて家へ帰ると、何気なく開けた郵便受けにはがきが一葉入っている。郷里から届いたものだった。懐かしい郵便番号に思わず顔がほころぶ。番号の向こうに友達の姿が浮かんできた。彼らとはもう半年も会わない。
 誰からだろうと期待した。だがすぐにがっかりした。大叔母からだ。
 はがきの裏には細々とした字が並んでいた。お盆には帰省するようにと何度も念を押してある。堅苦しい文面で、手紙というより、通達と呼ぶほうが適している。私はそれを見て、母にこのはがきを手渡さなければならない憂鬱を覚えた。大叔母からの便りを喜ばないのは、これが理由である。郵便受けなど見なければよかった。
 私はしばらく、郵便受けの前で突っ立っていた。このままはがきを置き去りにしてしまおうかと考える。あるいは素直に手渡すべきか。ぐらぐらと天秤が左右に揺れる。急かすように、じりじりと太陽が背中に照りつけた。ちょうどその時、隣家のほうが音がして、私は驚いてさっと家の敷地に飛び入ってしまった。まるでやましいことをしていたのを見咎められでもするように。
 家の中に入る。母が整理したあとなのか、三和土にある靴は父と私の分を除いてちょうど二足しか出ていない。台所のほうから「おかえりなさい」と声がした。母はいつも台所にいる。機嫌がよさそうな声音に、余計に気が重くなった。靴を脱ぎながら中に声をかけ返し、洗面所へ行って手を洗う。災いを延期するために、いつもより丹念に。ついでに顔も洗った。やっているうちに、ビニール袋に入ってある冷凍食品から水分がしみ出した。潮時である。
 居間へ行く。ふわりと、涼しい空気。カウンターキッチンだから、母の顔はすぐ見えた。覚悟してきたはずが、反射的にはがきを背中に隠してしまった。はがきと一緒に隠れたビニール袋ががさがさと騒ぐ。どうしたのかと訊かれて、とうとう延期に限界が来たと思った。だが、体は動かない。じっとしていると、母がこっちに出て来て、私の背中のものを取り上げた。
「いま見たら来てたの。いま来てたんだよ。いま言うつもりで……」
 母は険しい顔つきをして、すぐに大叔母からの通達を読み切ってしまった。
 私は固まったまま、それを見ているしかできない。
「突っ立ってないで、早く買って来たものを冷蔵庫にしまいなさい。冷凍食品もあるんだから、悪くなっちゃうでしょ。わかんないの?」
 冷たい声で、母が言う。言われた通り、すぐに冷蔵庫に向かった。中の食品を分類するのに手間取って慌てる。絶えず感じる背後の圧迫感にわけがわからなくなって、とうとう袋ごと冷蔵庫に押し込んでしまった。振り返って確認すると、幸い母はこちらを見ていない。さっと脇をすりぬける。二階にある自分の部屋に駆け上がり、すぐにドアをばたんと閉めて、大きく息をついた。
「どうしたの。そんなに慌てて。なにか忘れ物?」中にいた姉が目を丸くする。
「おつかいは済んだ。けど、大叔母さんからはがきが来てて……」
 そう簡単に伝えただけで、姉は「あぁ」と笑って、すべてを呑み込んでしまう。よくあることなのだ、母が田舎のことで不機嫌になるなんて。実際、姉はもう興味をなくして、また漫画を読みだしている。慣れというのは恐ろしい。しかしいくら慣れたといったって、もうちょっと危機感を持ってもよいのではないか。
 姉の体勢は、出かける前となにも変わりがない。ベッドにうつぶせに寝かせた体の、足だけが前後に揺れている。服装は昨日と同じ、白地のプリントTシャツと膝丈のデニムのサロペット。姉にとって夏場の制服である。不精だから、これ以外のものは滅多に着ない。そんならシャツだけにすれば楽で良さそうなものだが、姉は見栄っ張りなので、多少はおしゃれに気遣っているように周りに見せたいのである。一方、私は薄緑のロング丈チュニックにデニムのパンツ。当たり前だが、私は毎日着替える。
 姉と私とは、一卵性の双子である。服装が同じだと、ほとんど誰にも見分けがつかない。
 昔はいっしょになって、悪戯もずいぶんやった。そうして時には、それを利用して互いに助け合うこともあった。例えば、ちょうど二年前の夏、小学三年生の頃。私たちの学校には通過儀礼があって、男子であれ女子であれ関係なく、地元にある小さな滝からの飛び込みをやらなければならなかった。
 私はとうにやり終えていたし、だいたい飛び込むぐらいなんのこともなかったのだが、臆病な姉はそうではなかった――死ぬに決まってる、死ぬ、死ぬ――姉はそうやって泣き喚いた。そこで儀礼の当日、私は姉のふりをしてやることにした。逆に姉は私のふりをして、泣き叫ぶ私を友達といっしょになって持ち上げて、そのまま滝つぼに放り込んだ。私が水から這い出てきて嘘泣きをしていると、頭上からげらげらと笑い声……。
 私たち姉妹は昔からそのようにして、自分たちの境遇を利用してきたのである。
 ただ、今となってはこの手は使えない。人が多すぎて対応が追い付かないし、いつまでもそんな風に甘えてもいられない。そういう訳で、こういうことはもうやめようと、この町に引っ越してきた春先に約束した。しかし今でもなんとなく、髪型は二人とも揃えたままにしてある。入れ替わりの名残だ。
 私は自分のベッドに腰を落ち着けて、ひとつため息をついた。
「もうばあちゃんもいないんだし、お母さんたちも仲直りすればいいのにね」
 姉はちらりと私を見て、「はあ」と生返事する。聞いているのかいないのかわからない。姉はそれから仰向けに転がって、鼻唄を歌いだした。私は多少意地になって、話題を続けようとするが、反応はほとんどない。いくつかが独り言として消えた後、姉はびくともせずに言った。
「私はもう帰省自体やめてもいいと思うけど」
「でも、お母さんだけ置いていくわけにはいかないでしょう」
「そうじゃないよ」姉はなんでもないことのように、淡々としている。「お母さんだけじゃなくて、私たち全員帰らなくていいでしょってこと」
 まさか、と思った。しかし姉はいたって正気である。
 姉は半年前の引越しの当日に車の中で「行きたくない」とわがままを言い、大暴れをして、逃げ出して、捕まって、泣き喚き、また大暴れした女である。ちょうど家にいた親戚のおじさんから、麻酔銃を準備したほうがいいなと笑われた女である。そんなやつが帰省しなくてもいいだなんて信じられない。しかも、単に母を気遣っているとも思われない。いかにも、姉自身が帰りたがらないように見える。
 縁が薄くなれば姉もこんなものかと失望した。姉はまた漫画に目を落として、アハハと能天気に笑いだす。それがちょっと癪に障った。
「でも、お盆は大事でしょ……」
 そう呟くと、姉はぷっと噴き出した。にんまりとした顔をこっちに向ける。
「沙織さぁ、まさかお盆に死んだ人がほんとに帰って来ると思ってないよね」
「そりゃ、そんなわけないよ。ただの迷信なんだから」むっとする。
「それにさ、お母さんたちが本当に仲直りなんかすると思う?」
「まあ、無理だろうけど……」
「夏休みはあとどれぐらい?」
「一か月とちょっと」
「じゃあ、そういうことで」
 姉は一人で勝手に決着をつけてしまう。しかし、私はまだ納得できずにいた。
「やめるって、そういうわけにいかないでしょ」
「どうして」
「盆は法事だし、みんな集まる日だからよ」
「はぁ。田舎者だねえ。三回忌もこの前終わったんだから、十分でしょ」
 年忌法要も盆も、姉にかかれば一緒くただ。友達に会いたくないのかとか、久しぶりに何々という場所に行きたくないのかとか訴えるが、ああ、ああそれねえと懐かしそうに言うばかりで効果がない。そのうち姉は、「はあ」としか言わなくなった。この女には真面目さが足りない。姉と話していると、こんな深刻な問題でさえ塵ほどの重さもなくなってしまうのだ。
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