第14話

文字数 1,752文字

 ところへ、自転車が一台走って来た。
 同年代ぐらいの男の子が乗っている。ちりんちりんちりんとうるさくベルを鳴らして私たちの前で停まったとき、その子が第一声に、
「なんで女と遊んでんだよ。勉強すんじゃねえのかよ」
 と怒鳴った。突然何ごとかと思った。声を向けられた亮太君は、先方を睨み返している。
 男の子は白い短パンに、朱色地のユニフォームを着ていた。白のハイソックスと黒いスパイク。自転車の前かごにはサッカーボールと、リュックサックが詰め込まれている。短パンには彼の背番号であろう十一という数字が刻まれていた。
 二人は睨み合って動かない。私もじっとする。十秒か二十秒か、ずいぶん長い間、風と蝉だけが時間を区切っていた。しかし、どこか走る車が鳴らしたピッという鋭いクラクションをきっかけに、男の子は自転車をこぎ出した。亮太君は彼の姿が見えなくなると、大きくため息をついて、ああ、もう、と厄介そうに漏らす。
 男の子の姿はすぐに見えなくなった。乱暴な人だな、と思った。次に、亮太君とどういう関係なのだろうと考えた。少なくとも友人ではなさそうである。
「変なひと」
 私は冗談めかしてそう笑うが、亮太君がまじめな顔をしているので、すぐに黙った。
 もしかすると、私はまず質問すべきだったのかもしれない。あれは誰なのかと、まっすぐに訊くべきだったのかもしれない。しかしもはや、その問いを彼に差し向けるには、あまりにも時間が経ちすぎてしまった。私の頭の中は既に、訊くか訊かないかという二つの選択肢に占領されて、身動きがとれなくなっている――踏み込んでいいのか。私が。彼に。その葛藤は彼への配慮であると同時に、自分が相手から踏み込まれないための自衛でもあることに、私は気づいている。
「この川をずっと上流に行くとさ」
 と亮太くんは言った。私はウンと応じる。声が、少し震えた。
「この川をずっと上流に行くと、だんだん雰囲気が寂れてくるんだ。下の水が見えないほど草もぼうぼうに生えてさ。……それで、あるところまで行ったら急に視界がひらけて、前に住んでたところに着いてる気がするんだ。もちろん、地図じゃそうなってないんだけど、そんな気がするんだ」
 私は上流のほうを見た。遠くの橋に隠された或る一点に吸い込まれるように、川はまっすぐ続いている。どこまでもまっすぐに。私は頭の中に思いえがいた。寂れていく景色、減っていく家、増えていく虫の声、道はやがてぼろぼろになって、アスファルトが木の根に押し負けて歪んでいく。その先に、行き慣れた門構えが見えた。祖母の家だ。
「なんでもないことだよ。誘われて、ただ断った。向こうの逆恨みなんだ」
 亮太君はそう呟いて、大きくため息をつく。なにに誘われたかは、言わなかった。
 すると、ちりんちりんと鈴の音が響いてきた。上流のほうから、自転車に乗った見知らぬじいさんが鼻唄を歌いながら通り過ぎて行った。前に見た気がする。肌着は黄ばんだ白色の、首元はすっかり駄目になって、肩のあたりが風になびいている。じいさんが視界を右から左へ消えた頃、亮太君は顔を覆った。
「こんな町、嫌いだ」
 私はなんとも答えられなかった。少しの沈黙のあとで、彼がこう訊いてきた。
「カオリはどっちが好きだ。この町と、前に住んでいたところと」
 正面からそう問われて、私は答えに窮した。奇妙な物質が、喉のところでつかえている。迷う間と、亮太君の目が、私を焦らせたが、ようやくのことで出て来たのは、
「うちの田舎は、すごくいいところだよ」
 というおかしな文句だった。亮太君の失望がすぐにわかった。
「そろそろ帰ろうか」
 と言って彼は立ち上がった。付け足す言葉を探したが、見つからない。私はほとんど呆然として、彼の言うなりに任せていた。それじゃあと挨拶され、私もそれじゃあと返す。こっちをじっと見つめる亮太君の視線が、私に突き刺さる。
「カオリはいつもどっちつかずだな」
 彼はそう呟いて、私に背を向ける。心が、ずしりと重くなる。
 自分という人間がつくづく嫌になって、知らぬ間にぼとぼとと涙があふれだしていた。抑えようとしても抑えられないぐらい、目が壊れたんじゃないかと思うぐらい、ぼとぼとと流れていく――沙織、なんか最近おかしいよ――姉の言葉が、頭で鳴った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み