第22話

文字数 3,765文字

 家へ帰って玄関を開ける。まるで誰もいないみたいに静かだった。
 玄関ホールは真っ暗だが、居間のほうが洞穴の出口みたいに白く光っている。靴を脱ぎかけたままじっと耳を澄ましていると、かすかにソファの革を擦るような音がした。いちおう、誰かいるらしい。姉の顔が頭に浮かぶ。母かもしれない。
 恐る恐る近づくと、母が座っている。テレビもつけずにただ座っている。表情はわからない。何してるの、と言いかけて、気づいた。テレビ画面の黒に反射して、誰かが映っている。もっと近づく。母の膝に、姉が座っていた。二人とも私のほうを振り返りもしない。気味が悪くなって、とうとう「ただいま」と声をかけた。母がゆっくりと首を巡らせて、私のほうを睨む。
「沙織」と母は言った。「あんた、詩織にひどいことを言ったでしょう」
「別に言ってないよ。ひどいことなんて」
「嘘つき。死んだほうがいいって言ったんでしょ。なんてこと言うの」
「違うよ。そんなこと言ってない!」
 姉の嗚咽が聞こえる。私は死んだほうがいいなんて言ってない。生まれて来なければよかった、と言ったんだ。もし姉がいなければ、私とおんなじ顔をしたやつがいなければ、私はもっと楽しく、自由に生きて、面倒もなかったはずだ。部屋だって、私だけのものだった。洋服だってぜんぶ私のものだった。姉のために、姉のふりをして、滝から飛び込んでやる必要もなかった。泣きじゃくる演技をしなくて済んだ。嘘をつかなくて済んだのに。
「詩織に謝りなさい」
「何を謝るの。私は何も悪くないんだから」
「はやく、詩織に謝りなさい!」
 母がそう怒鳴るのといっしょに、姉が大声で泣き始めた。私はその声に驚いて、すぐに自分の部屋へ逃げていく。ベッドに飛び込んで、布団をかぶった。心臓が、激しく鼓動している。私は丸くなって、外から聞こえてくる音に耳を澄ます。部屋の冷房が、急に入って来た私に気づいたみたいにぼっ、ぼっと息をついた。しかしすぐに止んでしまった。姉の叫ぶような声が響いてくる。それも、やがて止んだ。急に音がしなくなる。どうしたのかと思う。しかし、布団から出る気はしない。
 それからしばらく、私はそのままじっとしていた。何分経ったのか、だれかが階段をのぼってくる。ゆっくりとした足取りに、最初は母かと思った。だが、母にしては足音に遠慮がない。まるで近づいていることをこっちに教えるようだ。部屋のドアが開く。私は身を固くする。すぐそばに立っている。
掛け布団を持つ手に力をこめる。しかし、何もしてこない。そのまま数分経つ。何もしてこない。私はおそるおそる、顔を出した。すぐそばで、姉がにんまりと不自然に笑いながら、私を見下ろしている。右手には、工作用のハサミ……。
すると、姉は自分の前髪を刃にかけた。
「沙織が切らないなら、私のほうから切ってやる」
「なに……」
と言いかけたとき、姉の前髪がばさりと床に落ちた。私と違う私が、そこにいた。
「馬鹿、何やってんの!」
 私は布団を押しのけて、姉に飛び掛かった。思い切り力を込めて、押し倒す。馬乗りになった。姉からハサミを奪い取ろうとするが、決して離さない。姉がまた髪を切り落として、顔に広がる。私は叫んだ。
「お母さん! お母さん! 詩織が!」
なにか予感でもしていたのか、すぐに階段を駆け上る音が聞こえてきた。その音に、ほっとする。だがそれがいけなかった。抑えつけていた姉の腕がすっと抜けて、ハサミがまっすぐに私のほうへ飛んで来た。瞬間、頭に鋭い痛みが走る。
姉の顔の上に、ぼとぼとと、髪の毛の束が落ちた。
 誰の髪かと思った。おそるおそる左手を耳のあたりにやる。ない。そこにあるはずの髪が、ある地点からばっさりと途切れている。驚いた。何度も触る。焦って激しく動いた拍子に、左肩に乗っていた髪束が、するすると姉の胸の上へ流れ落ちた。
「嘘。ない。髪が。ない。嘘。嘘でしょ……」
 なぜか、笑いがこぼれる。嘘だよね。そう問われた姉はハサミを放り出して、ごめんなさいと泣き始めた。なにを、謝ってるの。一体なにを。そのうち、体がぶるぶると震え出した。私はだれ。いま、私はだれなの。いつの間にか母が部屋に来ていて、私の腕をつかんで立ち上がらせた。嘘、という言葉がまだ頭の中で暴れている。
私たちは、すぐに美容室に連れていかれた。整えてください、と母が頼むと、姉が、同じ髪型にしてください、とすがった。しかし母はそれを承知しなかった。それでは、時間がかかりすぎる。これは罰だと母は言った。泣きじゃくる姉の横で、私はただ黙っていた。自分の部屋に、自分自身を置き忘れて来たみたいに、なんの考えも浮かばなかった。
美容室から帰る車中で、私たちは母から怒られた。しかしなんと言われたか、塵とも覚えていない。窓ガラスに映る自分をただ見ていた。窓ガラスに映っているのは、たしかに私であるはずなのに、首が見えるぐらい、髪が短くなってしまっている。そうして、その私の横に座る姉の髪は、未だに長いままだ。――ああこれでもう、と私は思った。ぼろぼろと涙が溢れた――私たち双子を区別できない人は、この世にだれもいなくなった。
家に帰ると父がいて、母と一緒になって私たちを叱った。そして、ハサミで切ったのが髪でよかった、と言った。怪我をしなくて本当によかった。もし目に当たっていたらどうなっていたか。父はそうやって可能性を心配した。私はそれがなんだかおかしかった。なにがおかしいのか自分ではわからないところが、輪をかけておもしろかった。
部屋に戻ってから、姉はしつこく私に謝った。私が許すと言うまでは続けるつもりのようだった。布団に入ってからも、向こうのベッドから「ごめんね」という声がいつまでも聞こえてくる。私は「うるさい」と言った。
「もう話しかけないで。私は死んだの。今日、死んだの……」
 それで姉は少し黙った。しかしすぐに、
「ね、私たちずっと姉妹だよね」
 と言った。本当に、癪に障るやつだと思った。
「母親が同じなんだから当たり前でしょ。ほんとにうるさい。眠らせてよ」
布団を頭までかぶった。声がしなくなる。ようやく済んだかと安心していたら、急に暗くなった。さっきまで豆電球の橙色が、薄いかけ布団の中までほんのり届いていたのに、それが消えたのだ。しかし私の足元はまだ光が届いている……。
 なにかと思って私が布団から顔を出すと、目の前に姉が立っていた。私はぎょっとして身を起こす。詩織の表情はかげになって見えにくかったが、たしかに泣いているのがわかった。私のベッドに膝をのせて、ぎゅっと抱きついてくる。
「私、沙織がいなきゃいやだよ」
 いやだよ、いやだよ、と詩織は何度も繰り返した。私は詩織を突き離そうとした。しかし、そのつもりで肩に置いたはずの手はするりと滑り、背中でとまる。私は詩織を抱き返していた。ほんとにもうだいじょうぶだから、と言った。
 姉は「よかった」と呟いて、そのままうとうととして、まどろんだ。私は姉の頭を撫でながら、心底最悪なやつだと毒づいた。人が許したとなったらさっさと寝てしまうんだから。でも、多分、私たちはずっと一緒なんだろう。
 そのうち、だんだんと撫でる手に力が入らなくなってきた。
 突然ふっと浮き上がるような感じが起こる。
 はっと気が付くと、私は玄関に立っていた。昔の家の玄関だ。
 歩き出して、懐かしい小学校の校舎を見に行く。なかでは授業をやっていて、そこには友達の姿もあった。帰ってきたんだ、と嬉しく思ううち、私は祖母の家に来ていた。私は祖母に会うために、ばあちゃん、と声をだして玄関の戸を叩く。でも反応がない。私は縁側のほうにまわってみた。客間をのぞく。そこで祖母が死んでいた。血は流れていなかった。しかし私には死んでいることがすぐにわかった。だって祖母は昔に一度死んだんだから。ああ、また、祖母が死んでいる。
 ぱっと家が消えた。祖母と私だけがいるからっぽな空間に取り残される。そうして、死んでいたはずの祖母がなにごともなかったようにむくりと起き上がる。おいで、おいで、と手招きをした。私はそれを恐ろしいと思った。でも、近づかないわけにはいかなかった。やさしい笑顔をしている祖母。私がじゅうぶんに近づくと、祖母は急に鬼の形相になって、私の腕をつかんだ。「出来損ないだね」と祖母は私をののしった。
「ろくでなしの子」
 祖母は呪いのことばを吐いた。私の肩から膝までを撫でて、
「体のなかにばいきんがいっぱい住んでる。それがいけないんだ」
と言った。私はぶるぶると震え、頭がまっしろになった。たすけて、たすけて、と心のなかで何度も唱える。するとぱっと祖母が消えた。それと同時に私のなかの恐れが消え、いま自分の身になにが起こっていたのかさえ忘れてしまった。
「沙織、そんなところで突っ立って、なにやってんの」
 振り返ると、姉が立っている。私は消えてしまった記憶をさぐりながら、わからないと答えた。姉はおもしろそうに「なぁにそれ」とくすくす笑った。「ほら、行こうよ」
 姉が私の手をひいて、歩き出す。歩くうちにだんだんふわっと眩しくなってきて、それが次第にきつくなった。正面に巨大なライトでもあるみたい。あぁ、これは夢だ、と私は思い――そこで、目が覚めた。
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