第23話

文字数 2,574文字

 何を食べるか決めあぐねて、棚を左右にふらついている時、向こうにいたふたりの女性が話をはじめた。菓子の選択は脇に逸れ、彼女らの世間話に耳をそばだてた。片方の女がこんなことを言う。――
 もうすぐ夏休みが終わるのでほっとしている。子どもは宿題を片づけていなかったから今慌ててやっているが、親としては、後は尻を叩くだけが仕事だからなんということもない。自分自身、夏休みの宿題は残すほうだったから、子どもには気の毒だ。親は子どもの手本であるべきだというのがわかりながら、それができていないのはもどかしい。そこへ行くと御宅はしっかりしているから、教育者として適任と思う……。
 もう片方の女が、それに応えて曰く、――
 子どもを見ていると自分の昔を思い出すことが多い。小学校に入学してからは特にそうだ。しかしだというのに、子の気持ちがわからないことがある。むしろそのほうが多い位だ。自分の子とはいっても、自分とはやはり違うのだと理解していたが、近頃は別の考えを持っている。必ずしも子どもが自分とは違う存在なのではなくて、単純に自分自身が自分自身の過去をすっかり忘れてしまっているということだ。いろいろなことを通り抜け、少しずつ変わっていくうちに、どんなことを悩んでいたか、どんなことを考えていたかということをすっかり忘れてしまったのだ。
前に私が娘の髪を梳かしていたとき、ふいに自分の昔を思い出すことがあった。私の髪はくせっ毛で、梳かしづらく、母は髪を結うのにも時間がかかっていた。私はその時間を退屈に感じて、もういいでしょうといってよく逃れようとした。そんなことを思い出しながらはっと気がついてみると、娘が昔の私と同じように足をぶらんぶらんさせている。やはり自分の子だと思ったし、結うのに手間取ってしまうのはやはりあの母の娘だという気がした。
けれどもう私は昔には戻れない。私が満足に教えてやれることは、今やっている家事ぐらいのことなんだろうと思う。学校や塾、習い事はもちろん、そこで出会う人たちが私にできない教育をしてくれるのだと思って、いろいろやらせている。偶然を頼りにするのは情けないが、しかし詰まるところ、人生で大事なのは偶然的なよい出会いなのではないか……。
 それで談話は終わった。私が会計を済ませてスーパーを出ると、外で姉が待っていた。友達三人と輪を作ってなにか話している。私が戻って来たのに気が付いて振り返った時、短くなった前髪がふわりと揺れた。
「沙織、買うの遅すぎ。ほら、行こ」
 私たちは自転車にまたがって、すぐに漕ぎだした。姉は左足で地面を蹴って、右足からペダルを回し出す。その日の姉の服装は、やはり白地のプリントTシャツと膝丈のデニムのサロペットだった。「ウォータースライダーってさ、頭から飛び込んじゃ駄目なのかな」と姉が言うと、友人たちが「危ないよ」と笑う。そんな冗談をいつから言えるようになったのだろう。

 帰省を終えてから一週間ほど、私はずっと姉のそばにいた。プールへ行ったり、遠出して海へ出かけたり、地元のお祭りに参加したりして、大騒ぎをした。ある日は例の米屋の依頼に従ってみんなにあんころ餅と冷菓子を宣伝し、実際連れて行ったこともある。店主に大変感謝されてあんころ餅を無料で二パックもらった。すごい宣伝マンだよ、と褒められてぞわぞわするぐらい嬉しかった。
 学校の友達とも、よく遊んだ。私はこれまでの埋め合わせをするようにみんなと遊び呆け、夜になると「明日はどうする?」と姉と相談するのが例になっていた。私は田舎に関わる一切を忘れた。亮太君のことでさえ、塵とも頭に浮かばなかった。
 久しぶりに帰った故郷に、私は実は泣く用意をしていた。
土曜日の朝、故郷に向かう車中でずっとどきどきしていた。どんなに鮮烈な体験が待ち受けているんだろうと、そわそわした。私たちを守るように高く生えた山々や木々とか、私たちを迎えてくれる温かい人たちとか、そんなものに触れたら、泣かずにはいられないと思っていた。
 故郷に着いたのはその日の真夜中で、私たち姉妹は堪らずにぐうすか寝てしまっていた。一瞬だけ目が開いたときにはもう布団で寝かされていた。その時には、それがどこの部屋かははっきりしなかったが、祖母の家だということは察しがついた。それで安心してまたすぐに寝てしまった。
 朝の覚醒は、急に起こった。
 まるで弾き出されるみたいに、身を起こした。長い間、呼吸が止まっていたみたいに苦しい。息を整えてから、改めて部屋を見回した。祖父の部屋だとすぐにわかった。亡くなった祖父の部屋はずっと物置きとして使われていたが、どうやらきれいに片づけられたらしい。部屋の隅には布団がていねいに畳まれていた。二人分。おそらく父と母だろうと考えて、次いで、姉の姿を探すがいない。布団だけが残っている。
 どこ行ったんだろうと思っているうち、私の鼻は祖母の家のにおいを意識し出した。帰って来たんだ、と独り言を言ってすぐに立ち上がった。部屋から飛び出して、早歩きに縁側に向かった。縁側は仏間を過ぎてすぐだ。祖母の遺影が目に入る。にっこりと嬉しそうにほほえんでいる。「よくあんな写真があったな」親戚のだれかが、いつかそう漏らしていた写真だ。ばあちゃん、帰って来たよ。目頭が熱くなる。たぶん、泣くんだろう。絶対泣く。泣かずにいられるもんか。泣く。泣く……。
 射しこんでくる日差しに目を細める。目の前に広がる、郷里の姿。
 そこに格段の感慨は湧いてこなかった。
 一面の緑は壁のように迫り、顔見知りはみなまるで昨日会ったようである。ああ、その景色はおそろしく退屈で、古臭い。湿気がひどい。虫がうるさい。その後、私は懐かしい学校にも行ってみた。友達にも会った。姉と来たら、みんなと再会した途端にぎゃんぎゃんと泣き始めた。会いたかったよ、と抱きついて、泣いている。
 呆然とした。涙なんて、ちっとも出てきやしない。友達と会えて嬉しくないわけではない。そんなはずはない。しかし、別にそれ以上のことはない。ああ、会えた、よかったな、それで済んでしまう。
「沙織はね」と姉が言った。「みんなと会うの、ほんとに楽しみにしてたんだよ」
 嘘つき、という言葉が鳴る。
 私はようやく、本当は帰りたくなかったのだと気が付いた。
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