第6話

文字数 2,626文字

「お前は引っ越してきて、どうだ。ちょっとひどくないか?」
 男の子は、この町のことが気に入らないようだった。それで、いくつかこの町の悪口を言った。私も、彼の悪口に誘われるように、不満を吐き出した。私はあの場所で良かった。あの場所が良かった。私はあの場所にいなければならなかった。言っているうちに、だんだんとそんな気が強くなりだした。そうして二人で「もと住んでた場所に帰りたい」と声を合わせた。
 たとえば、私はこの町の人口の多さや、建物の数、とりわけ駅前は密度が高く、息苦しいのだと言った。彼は私に続けて、郊外の寂しさを指摘する。栄えているのは駅前ばかりで、あとは全て田んぼ。建物はまばらになる。その中途半端さが、何においても、この町の大きな特徴なのだという論である。田舎でもあり、都会でもあるというのに、両方の利点をうまく取り入れてないせいで、欠点ばかりが際立っている、という。私はなるほどなあと言って、うんうんと大いに納得した。
 田舎から越してきた私からすると、どうしてもこの町の都会的な側面が目立つ。しかしやはり、この町にいる人間も田舎者には違いない。しかも自分では田舎に住んでいると思っていない田舎者である。私はわけもなくいらいらしてきて、また「帰りたい!」と叫んだ。彼もまた「帰りたい」と言った。
「俺たち、似てるのかもしれないな」
 彼はそう言って、ちょっと嬉しそうに笑った。似た者同士。私の顔がゆるんで、にんまりとする。それから、強く頷いた。
 彼は急にこう言った。
「この町の人間は、時代錯誤なんだ」
「どういうこと?」
「世の中に勉強ほど大切なものはない。それをわかってない」
「私も勉強の大切さはわからないけど……」
「お前はきっと、田舎から引っ越してきたから世間知らずなんだよ」
 ちょっとむっとしたが黙って聞く。彼は大体こう説明した。――
 勉強の重大さを、この町にいる者は全員知らない。将来就職することになる企業には悪徳のものが多くあって、そこに入らずに済むかは学歴が大きく関係する。文系より理系のほうがいい。大学院まで行けばもっといい。学校がなければ勉強しなくていいと考えたり、一日中役にも立たないスポーツに興じたり、あるいはテレビゲームにうつつを抜かすのは愚の至りだ。余暇は進学塾に通い、受験に備えておくのが安心だ……。
つまり彼は、悪い会社に入りたくなければ塾に行けと言う。その口ぶりはお母さんに似ている。似た者同士だと確認したばかりだというのに、私は彼のことをはっきりと「変なやつだな」と思った。なにしろ、私は生まれてこの方、勉強をありがたいと思ったことは一度もない。テストでいい点をとればもちろん嬉しい。しかし、そのために遊ぶ時間を削るほどには嬉しくない。彼と同じように、母もまた、塾は将来のためだからとよく言う。しかし一方で、子どものうちしかできないことがあるとも聞く。頗る不明瞭である。
 家にこもって勉強するより、商店街へ行って店の人と話をしたり、健康センターの健診ルームに行って小さな子と遊んだり、看護師さんを手伝ったり、普段は入らない路地を曲がったりそれで自分たちオリジナルの地図を作ったり、……大切なことがたくさんあると思う。
 その後彼から熱心に通塾をすすめられたこともあって、だいぶつまらなくなってきた。そろそろ帰ろうと考えだす。ちょうど日は西に沈みかけて、わずかに空を藍に染め始めていた。日陰にいると少々肌寒くもある。日がな一日冷やされていた場所だから余計だろう。
 それじゃあそろそろと軽く挨拶をして立ち上がると、彼は饒舌をやめた。
「まぁ、塾のことは考えといてよ……」
 と言って、彼は急にシンとする。それから寂しそうな目でこっちを見た。それじゃあという返礼も、どこか沈んでいる。意気揚々と勉強のことを話していた彼はどこかに消えてしまった。私はなんだか申し訳ない気がし出した。
 私はまだ彼の名前を知らない。彼も私の名前を知らない。知っているのは同年齢ということと、学校が違うということだけだ。こちらから切り出そうかと思ってもじもじしたが、たいへんに躊躇した。教えたい気もする。一方で、教えたくない気もする。このまま何も知らせずに、のっぺらぼうとしてふらふらしているほうが気楽かもしれない。しかしまだもじもじする。一向に心が定まらない。
 のっぺらぼうには、のっぺらぼうの魅力がある。私がそれを強く感じ出したのは、この町へ引っ越してきてからである。私が誰なのかということを知った人はみな、その瞳を淀ませて、私を独立した一人の人間から、単なる双子の片割れに変えてしまう。私の存在は姉と重なってぼやける。私はいなくなってしまう。だから、正直に告白してしまえば、嫌いなのだ。自分のことを明かすのが。
 こちらが逡巡しているあいだ、向こうも黙ったままでいたので、お互いをじっと見つめ合う、変な格好になってしまった。私がまだ決めかねていると、
「俺は亮太っていうんだ。林亮太」
 と向こうから明かしてきた。こうなったら、仕方ない。
「私は……」と口にする。
 しかし、言葉はそこで詰まった。頭に浮かんだのは、姉と光子さんの顔だった。
 二人とのあいだに起こったいろいろの出来事が、
 私の名前を覆い隠すように、幾重にも重なっていく。
 私は一瞬、自分の名前を忘れた。けれど、もちろんすぐに浮かんで来た。
 しかしまた隠れ、そしてまた浮かび上がる。
 一瞬のあいだに目まぐるしく、紡ぐべき言葉を探した。
 遂に絞り出した言葉は、喘ぐように弱々しく、
 二人のあいだに吹きつけたやさしい風にさえかき消されてしまう。
 私はともかく、声を発した。
 声を発し、彼はそれを聞き取ろうと耳を澄ました――私は、眞見沙織っていうの。
 彼はちょっとほほえんだ。私は、強張っていた体の力が抜けるのを感じた。悪いものを吐き出したように、胸がすっきりしている。仕方がないことだと秘密主義の自分が呟いた。
 だというのに、彼は別れの挨拶をして手を振ったあとに、
「またな、カオリ」
 と言った。私は呆然とした。カオリだって?
 すーっと、額に涼しい風が吹き抜けていく。彼は照れ臭そうに笑いながら、私の行く道とは反対に歩き去っていく。カオリという、その名前を、私は心の中で何度も繰り返した。私は日本語を忘れたみたいに、しばらくそこに突っ立っていた。遠ざかっていく彼の後ろ姿に、声をかけようとは思わなかった。
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