第31話

文字数 2,777文字

 母はいま、台所にいるのだろう。母はいつも、台所にいる。田舎でもそうだった。祖母の家で宴会がある時はいつも、母は台所にいた。準備をしなければならなかった。給仕をしなければならなかった。そうしてそのたびに、光子さんが母を気遣って、小皿に料理を取り分けて持っていくのだ。他から一段低くなった、あの薄暗い台所で、母はひとり立っていた。
 それで。
 ああ、思い出した。
 まだ小学校にもならない頃、祖母の家で宴会があった。あの日もなにか法事だったと思う。襖を取り払って部屋を広くして、テーブルいっぱいに料理が並んでいた。腹いっぱい食べて眠くなった私たちは、別に用意された部屋で寝ていたが、わっと宴が騒がしくなったのと一緒に私は目が覚めてしまった。トイレへ行こうと思って起き出したついでに台所に顔を出してみると、祖母と母が向かい合って立っていた――そうだ、私はあれから台所が怖くて仕方なくなったのだ――祖母がいままで見たことのない、ひどく厳しい表情で、母にこう言った。「役立たず。これだからよそ者は嫌いなんだよ」私の体はがくがくと震えはじめた。「だからあんな出来損ないに産んだんだ」息が苦しくなった。引き戸に体をぶつけたとき、祖母と目が合った。あんなに弱い祖母は、あのとき初めて見た。
「婆さんはな、沙織たちが――」
「ちょっと待って!」
 私は父の言葉を遮った。心臓がぎゅっと絞られたように痛んでいる。聞きたいのと、聞きたくないのがぶつかって、また例のどっちつかずが争い出していた。「カオリは」と、亮太君の声が思い出された。「カオリはいつもどっちつかずだな」だがカオリは、もう死んだのだ。佳織はもう死んでしまった。
「教えて、お父さん」
 私の覚悟に、父は応えた。
「婆さんが怒ったのは、沙織たちが双子だったからだよ」
 その言葉に、私は驚かなかった。そうだろうと納得した。なぜなら、祖母は幼い私に、何度も何度もその話を繰り返し聞かせたから。ああ、何度聞かされたことだろう。私はそのすべてを、すっかりそのまま、すべて聞き流してきた。祖母の話す他の迷信にくるめて、全部捨ててしまっていた。
 姉と喧嘩して家を飛び出してきた私に、祖母は言っていたではないか――お前たちは双子なんだから協力し合って生きていかなくちゃいけない。全部吐き出してご覧。、それですっきりしたら、家に帰って詩織とゆっくり話をしなさい。あの子だって、きちんとわかっているはずだよ――どうして協力しなきゃいけないの、私は詩織なんて嫌いなのに――一人では、生きられないからだよ……。
 双子というのは、もとはひとつだった、と祖母は言っていた。――

 だがお前のお母さんはよそ者で、息子とは血が合わなかった。お母さんの持つ悪い病気がお前たちを引き離してしまったんだ。だけれども、本来お前たち姉妹は二人で一人なのだから、決して離れてはいけないよ。そうしないと、生きられないんだよ。

「死んだらどうなるの?」

 どうにもならないよ。死んだら、本当に、何もかも終わりなんだ。
 つらいとか、かなしいとか、うれしいとか、たのしいとか、すべてが消えてしまう。目も、耳も、鼻も、味だってしないし、もう温かさも、冷たさも、決して感じることはないんだよ。お前たちはもしかしたらもう一息で、そんな風になっていたかもしれない。あのお母さんから無事に健康で生まれたこと自体が、有難いことなんだよ。だから決して、詩織と離れてはいけないよ。お前たちは不完全な存在で、二人いて一人前なんだ。そうして、それはあの女のせいなんだ。ばあちゃんはお前たちが幸せに生きられるように、できるかぎりのことをするからね。ばあちゃんは、いつでもお前たちの味方だからね……。

「入ってもいいか?」父が訊く。
 私は扉を開けた。父は部屋に入ってきて、珍しそうにぐるりと見回す。
「ずいぶん変わったなあ。引っ越してきたときは空っぽだったのに」
「そりゃそうだよ。前に見たことなかったっけ」
「通り過ぎることはあったけど、こうやってまじまじと見るのは初めてだ」
「お父さん、忙しすぎるよ。たまにはがっつり休みをとればいいんだよ」
「今年の夏も結局帰省しかできなかったもんなあ」
 父は確認をとってから、私のベッドに座る。机に積んである黒いアルバムをひとつとって、ぱらぱら眺めはじめた。私はハンカチで目元を拭いてから、父の隣に座る。
やはり被写体自身が見直すと、いろいろ見え方が違うらしく、いろいろ思い出話を聞いた。この写真ができるまでに何度も失敗してうんざりするぐらい撮り直しをさせられたこと。そして、天気が悪いことを理由に同じ場所へ二日続けて行かされたこと。
「迷信を信じるなんて、馬鹿だと思う」と私は呟く。
 父は「昔風のバァさんだったからな」と笑う。
「でも好きだよ」
「そうか」
 父はそれだけ言って、アルバムを取り直した。白色だ。ぱらぱらとめくると、すぐに母の写真集めいてきて、私が少しからかうと、照れ臭そうにした。
 父と母、それから祖母が三人で並んで撮っている写真まで来ると、父の手が止まる。
「ばあさんの遺影はここからとったんだ」
 と父は言った。そうなんだ、と返事する声が震える。
「お父さんやお母さんも、いつか死んじゃうんだね」
「死なないと。いつまでも生きてる方が迷惑だろ」
「迷惑じゃないよ。だって、死んだら終わりなんだよ」
「どうして」
「何も感じられなくなるから」
「感じられなきゃ駄目か?」
「当たり前じゃん」
「でもばあさんは、沙織たちのためなら死んでもいいと思ってたはずだけどな」
「死んだら、もう会えなくなるのに?」
「感じられるかどうかなんて、関係ないんだよ」
 えっ、と漏れた私の声を覆い隠すように、父はページをめくっていいかと私に質問した。いいよと頷く。しかし一向にめくらない。ねえ、早くして、と私が手を伸ばした。
頁がひとつ進む。
 次の写真は、病院のベッドで撮ったものらしかった。前に見たことがある気がする。しかしそれとは少し角度が違うようだ。本当に嬉しそうな母の表情が、写真の真ん中に写っている。
「お母さん、きれいだね」と私。
「ああ、きれいだ。いまはちょっと、怒りっぽいけどな」父は笑う。
「ううん。いまもきれいだよ」
 まためくってみると、今度は姉妹の写真が並び、それがしばらく続いた。仰向けに並んだ赤ん坊を上から写したものがあって、隅には左が妹だと書き添えてある。
 最後のページに行きついたとき、挟んであった紙がはらりと落ちた。メモだ。父がそれを拾い上げて、私に見せた。最初、なにが書いてあるかわからなかったが、すぐに名前だと気が付いた。

「見つけた」
 そのメモには佳織の名前が、たしかにあった。赤い、丸印。

 自分の頬に、涙が伝っていくのを感じた。
 これでようやく、亮太君に会いに行けるのだと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み