第8話

文字数 2,025文字

 何か面白いことはあったかと訊かれたから、カオリの話をした。
 亮太君のことは話さない。ただ、友達に名前を呼びまちがえられたという、それだけを話した。すると父はなるほどなあと言って、感心したような顔をする。
「父さんはな、女の子が産まれたら、織っていう漢字を使いたいと思ってたんだ。それでいろいろ考えてたんだが、そうか、カオリというのもあったな。いい響きだ」
「馬鹿ね。カオリなら候補にあったじゃない」と母。
「どうだったかな。昔書いたメモが残ってればわかるんだけど。探してみるか」
「やめなさいよ。そんなの捨てちゃったに決まってるでしょ」
もっともなことだ。さすがに私も母に賛成である。父はしゅんとしているが、まだ納得しておらず、拗ねている風に見える。まるで子どもだ。母と一緒にくすくす笑う。 
「織って、どういう意味なの?」と私。
「布を織るっていうだろ」と父が言う。
「糸を紡いでいって、どうこうみたいな話?」
「察しがいいなあ。織るっていうのは、糸と関係してる。一本一本ていねいに、自分の人生を織りあげていけるようにっていう願いがあるんだよ。父さんは子どもの頃から、娘にはそういう名前をつけてやりたいと思ってた。うん。きれいな漢字だ。響きもいい」
「でもお父さん、男の子の名前は全然考えなかったんだよ」母がそう言ってからかう。
「当たり前だ。男だったらお前が考えなさい」父は澄ましたものである。
 私は、父が私たちの名前を考えているところをぼんやり想像した。自分が生まれる前の話だと思うと、なんだか不思議な感じがする。母は、父のあまりの熱心さに呆れたという話をしたが、しかしやはり、嬉しそうに見えた。
「昔の流行りだと女の子には、秋子とか順子とか、子という漢字をあてるのが普通だったんだよ。父さんは織で押し切ったけどな。お袋はうるさかったな。名前は人に呼んでもらうためのものだから、奇をてらったものはくれぐれもやめなさいって。ありふれた名前にしろってさ。織だって、十分ありふれてると思うけどなぁ」
「やだ、まさか一緒になって考えたの?」と母が嫌そうな顔をする。
「そう、ばあさんがこれにしろって赤で丸をつけたりしてさ」
「なんてひと」
「そりゃあの時はまだ同じ家に住んでたんだから。そう嫌な顔するなよ」
 祖母が名づけを気にしたのは、ありそうなことだ。祖母は縁起とか占いとか、そういう迷信的な決まりごとを非常に気にする人だった。いわゆる姓名判断も気にしただろし、私には思いもかけないような決まり事も気にしていただろう。夜に爪を切るなとか、朝蜘蛛は縁起がいいとか、有名な迷信はもちろん、ほくろの位置がどうとか、写真の写り方まで細かく言う人だから命名はきっと難航したに違いない。つい笑ってしまう。
 父は思い出したように、こう言った。
「そうだ。今日、有給入れてきたよ。盆に帰らなきゃいかんだろ」
「今日はあなたの叔母さんからお葉書が来てました」
 母は馬鹿丁寧にそう言って、父にはがきを渡す。父は受け取らない。
「いいよ、どうせ通り一遍のことしか書いてないんだから」
「そんなこと言って。あなたの叔母さんでしょう」
「叔母だから言うんだよ。悪い人ではないんだけど、どうも固いからいけない。昔から言ってるんだけど、あれはもう性分だろうな。しかしまぁ、なにか土産は必要か」
「お酒でいいでしょう。何本か買ってあります」
「うん、それでいい」
 簡単に話がまとまる。父はうまそうに唐揚げを口に放り込んで、私を見る。
「沙織はどうする。友達になにか持っていきたいだろ」
「ほんとだね。何も考えてなかったけど」
「途中のサービスエリアで何か買えばいいじゃないの」母は大儀そうに眉を曲げた。
「そりゃ寂しい。せっかくならこの土地のものじゃなくちゃ」
「相変わらず面倒ね」
 母はため息をついて、台所へ引っ込んでいった。父は「なんでも買っていいぞ」と言うが、そうすらすらと思いつかない。この土地特有のものがいいと注文までつけられては余計である。この町の特産と言われて思いつくのは商店街にある大きな地酒屋か、あるいはその手前にある和蝋燭屋か、いくらかのフルーツだが、どうもしっくりこない。うんうん唸ってようやく思いついたのは、餅だった。
 商店街に佐藤米屋というのがあって、そこの主人が自前であんころ餅を製造している。三重の赤福とは違う、人差し指にのせられるぐらいの小さなもので、数えも個ではなく粒で通っていた。お餅もあんこも自家製で、特にあんこが、やりすぎていない落ち着いた甘さをしていて、今まで食べた中で一番おいしい。
「いいじゃないか。よし、買ってこい」
 父も好きだから、さっそく母に頼む。母は露骨に嫌そうな顔をする。お餅だなんて保存はどうするんだとか、せめて車が入れる店にしてくれればいいのにとか、文句を言う。父が説得していろいろ言うのを、母は、「はあ」「はあ」とやる気なく返事していた。あの娘にしてこの母ありという気がする。
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