第7話

文字数 1,403文字

 父が帰って来たとき、時刻は既に九時を回っていた。
 家の前を明るく照らす白い光と、唸るようなエンジン音。それを合図に母は見ていたテレビを消して、脱衣所に行き、バスタオルと寝間着の準備をする。やがて、車庫から出て来た父は、弁当箱とペットボトル、持って行ったお菓子の余りが入った小袋を母に手渡して、そのまま風呂場へ。がこん、と音がする。これは父専用のオレンジの洗濯かごが揺れて、そばにあるカラーボックスに当たる音だ。父の着ている藍色の作業着はひどく汚れているので、私たちの洋服とは別にして洗濯される。そして浴室ドアが開く。すぐに閉まる。がーっ、がーっ、と二回鳴る。それが私の合図。
 私は宿題の計算ドリルをぱたんと閉じた。階段を下りて台所に行き、母とふたりで父の夕食の準備をする。しばらく待っていると、父が風呂から出て来た。バスタオルで体を拭いて、寝間着に着替えて出てくるまで、おおよそ一分半。しかしわざわざ数えなくても、湯気で蒸し蒸しした脱衣所から出る時に「あぁ」とか「おーっ」とか小さく唸る。それが聞こえたら冷蔵庫から缶ビールを出してあげればよい。今日のつまみは、チーズだ。
「沙織はもう夏休みだったよなあ。楽しんでるか」
 まるで違う惑星に住んでいて、久しぶりに交信するみたいに父は訊く。
父が家を出るのは早朝、残業をして帰るのは夕方から夜。その生活がほとんど毎日続き、休日はたいてい寝ている。曜日に影響される勤務シフトではないから、時間の感覚も曖昧なのだ。地球内宇宙旅行。これは田舎に居た頃から、一切変わっていない。職場が近くなって多少ましになるかもという話だったが、うまくいかなかったらしい。
 私は父がなんの仕事をしているのか知らない。もともとは、地元にある本社の工場で働いていた。地区の年寄りはあまり良く言わない会社だが、農作業を手伝うよりよほど儲かるので、今では地元における主な就職先となっている。景気がいいのか、この町にも新工場を建設し、その完成にあわせてお父さんの栄転が決まったのである。
 父の疲れた姿に、その日はどうしても亮太君の話が思い出された。学歴と悪徳企業の繋がりの話である。父の学歴は知らないが、よっぽど田舎者だから、大学院はおろか大学だってわかるかどうか覚束ないし、危うくすると、理系だか文系だかといった話も理解しないかもしれない。そうすると、今日の亮太君の論でいけば、父は「悪徳企業」に勤めていることになるし、なるほど、父の様子を見る限り、それを否定する材料はまったくない。
 この町に引っ越してきてよそのお父さんに接するたびに、たしかにそのことを考えなかったわけではない。あまりにも忙しすぎる。元気が取り柄の小学生ですら週に二日休みがあるのに、疲れた大人が働き通しなのはどうかしているのではないか。
「お父さんには夏休みってないの?」
「一か月以上も休みがとれるなんて、子どもの特権だよ。うらやましい」
父はそう言いながら、楽しそうに笑っている。父が楽になるなら何かしてやりたい気持ちはあるが、いい案は浮かばない。まさか働くわけにもいかないだろう。前に食費節約を掲げてご飯のおかわりを我慢したことがあるが、二日ぐらいで耐えられなくなってしまった。腹が減るばかりで役に立ったのかはっきりしない。自販機の下にお金でも落ちていないかと思うが、百円なんか拾ったところできっと足しにはならないんだろう。
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