第9話

文字数 2,212文字

 そのうちだいぶ時間も過ぎてきたから、いい加減で切り上げて、部屋に帰った。戻ってみると、姉はまだ起きていて、ベッドの上でだらしなく転がりながら漫画を読んでいる。まだ起きてたのかと訊くと、「はあ」と言う。宿題はやったのかと訊くと、また「はあ」だ。ぐうたらな奴だから、宿題ぐらい後で友達に写させてもらえばいいとでも思っているんだろう。
 姉はぐうたらのくせに外面だけはいい。だから世間から勉強家のように思われている。
 その誤解の種を蒔いているのは当の本人で、読めもしない小難しい本を借りて来て、ふんふんと適当に言ってみせるのが習慣である。ちょっと付き合えば正体がわかるのだが、元来の人見知りが幸いして、今日までこんな風に安穏として生きている。憎たらしいやつだ。
 厄介なことに、双子の姉が勉強家の名を背負わされていると、妹は不勉強を一身に引き受けさせられる。出かけるたびに、あら、今日も遊びに行くの、お勉強は……と言われる。
 なんだか無性に腹が立ってきた。前からいい子ぶるところはあったが、引っ越してからは特に顕著だ。自分を知らない人ばかりなのをいいことに、嘘ばかりついている。
 姉は漫画を読むのをやめて、急に起き上がった。そして私のほうを見て、嬉しそうにこんな話をしてきた。なんということもない、つまらない話である。
「今日ね、佳奈ちゃんのおじさんにかき氷買ってもらっちゃってさ。ストロベリーと、レモンと、メロンがあったのね。この中だったら絶対メロンでしょ。みんなは何選ぶかなと思ってたら、佳奈ちゃんが全種類のシロップかけはじめて、これがもう面白くて。すっごい変な味なの。ところで、プールの売店って、楽そうでいいよね。みんなとも話してたんだけど、ああいうところで働かせてもらえないのかな。お金にもなるし、小学生が働いてたらきっと珍しくてお客さんも来ると思うけどなぁ。頼めばやらせてもらっちゃったりして。小学生店員。絶対うけるって」
 今はあまり聞く気になれない。姉の真似をして、はあ、はあ、と相槌を打っておく。姉は嫌味に気づかず、能天気に笑っている。そう間を置かず、今度は宿題を写させてもらう計画について語りだした。やっぱりかとため息が出る。当人はどうだ私は利口だろうと自慢げな口ぶりである。いかにも馬鹿だ。なるほど、亮太君の言うとおり、勉強というのも大事かもしれないなと、にわかに気が変わり始めた。
「楽しそうなのはいいけどね」私はちょっと釘を刺す。
「いいでしょ」姉はにんまりと笑っている。
「お盆の日にまで約束入れちゃ駄目だよ。あんたが嫌がっても、帰省はするんだから」
 姉は笑顔をひっこめて、つまらなそうな顔をした。はいはい、と言って、また漫画を読みはじめる。ほんと、嫌な奴。
 なぜか今日は姉が憎たらしくてしょうがない。いや、実際は、母に対してもそうだったかもしれない。二人ともがあんまり帰省に対して後ろ向きなので、気が滅入っていた。だから、父と話すことができて、気持ちが落ち着いた気がする。父が田舎へ帰りたいかはわからないが、少なくとも中立であるだけありがたい。父はやはり生粋の地元民だけあって、ものがわかる。一応、姉も生粋のはずだが、家で過ごす時間多かったせいで、すっかり母と似てしまった――「よそ者の血が」――不意に、頭の中で祖母の声が鳴る。
 生前、私はよく祖母の家に出かけた。姉は決して来ない。母のせいだ。はっきりと口に出しはしなかったが、母は娘を祖母の家にやるのを嫌っていた。祖母と関わったと知ると、声も態度もどことなく冷たくなって、雰囲気が重たくなる。姉は私よりもそれに敏感だった。だから少しずつ、姉のなかから祖母はかすんでいったのだ。もしかすると、姉が故郷を軽んじるのはそのせいかもしれない。
 姉の枕元には、もう三冊も漫画が積みあがっている。宿題に手をつける気はそもそもないようで、学習机の上はカバンから紙クズまでごちゃごちゃと堆積していて、とても学習に役に立ちそうもない。そのゴミ山の中に、読む気もないのに借りて来た文豪の本が、斜めになって横たわり、顔も見せずに小口をさらしているのはいかにも哀れだ。だがそれがなんとも姉らしく思われ、情けない気分になった。
「今日のおつまみなんだった?」と姉。
 姉は父より、チーズが目当てである。なんだか父を貶められた気がした。あきれてベッドに倒れ込む。答える気にもならない。
「もう寝るの?」
 姉は横たわる私の顔を覗き込んでくる。目の前に、私とおんなじ顔がくる。
「当たり前でしょ。もう十時過ぎてるんだから!」
「訊いただけじゃん。怒んないでよ」
 姉はちょっと怯む。その情けない顔に、余計に腹が立った。
「さっさと寝なさいよ!」
思わず、怒鳴る。姉はびくりと震えて、めそめそ泣きだした。
「沙織、なんか最近おかしいよ……」
 面倒なやつだなと思い、無視して目を閉じる。そのうち、寝てしまった。――
 姉とけんかしたとき、私はよく祖母の家に逃げ込んでいた。祖母は私の落ち着くのを待ってから、こう諭すのが常だった。お前たちは双子なんだから、協力し合って生きていかなくちゃいけない。全部吐き出してご覧。それですっきりしたら、家に帰って詩織とゆっくり話をしなさい。あの子だって、きちんとわかっているはずだよ。
「どうして協力しなきゃいけないの、私は詩織なんて嫌いなのに!」
 一人では、生きられないからだよ……。
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