第15話

文字数 2,482文字

 腫れた目の治まる頃までその辺を散歩してから帰ったが、「どっちつかず」という彼の言葉はまだ背負ったままでいた。
 頭が重い。体が重い。ふらつく。息がしづらい。
 家に近づくほどに症状がぶり返してくる。玄関を開ければここにイライラが加わって、最近はずっとご飯を食べるのも憂鬱だった。噛むのも疲れる。飲み込むのも疲れる。しかし、姉は毎日のようにくだらない話を私に聞かせた。
「今日はね、学校のグラウンドでキャッチボールをやったの。そのうち人が増えてきたから試合をやったんだけどね、そこで佳奈ちゃんの頭にボールがぶつかってね、もうおかしくって。運動神経いいのにどうしたのって訊いたら、晩御飯のこと考えてたんだって」
 いつも通り、姉の話はつまらない。しかし、キャッチボールをやったのは羨ましい気がする。小学校のグラウンドだなんて、夏休みがはじまってから一度も行っていない。長い夏休み、遊びはいろいろ思いつくのに、なにひとつ実現していない。
 たとえば役所のそばにある健康センターでは、自分の身長や体重をはかったり、保健のクイズが出る機械があって楽しいし、その隣の文化ホールではほとんど日も空けずに何かのイベントをやっていたりする。夏休みの前に予定表をもらってきたのだが、もらった当日以来、一度も見ていない。あるいは、センターのそばにある公園でもいい。そこには池がある。夏のために設えてあるようなものだ。あるいは……と順々に考えていくと、途中で姉がこんなことを言う。
「これから夏期講習があるから帰るって子がいてさ、馬鹿みたいだよねえ」
 姉は同意を当然としているが、この場にいる人間でそれに頷くものは誰もいない。母に至っては露骨に不満の様子である。そもそも母は、引越しを機会に私たちを学習塾へ入れるつもりでいたし、今もあきらめてはいない。そして私ももはや、勉強している人を姉といっしょになって馬鹿にする気はない。
「お父さんって、どこかの大学に行ってたの?」と母に訊いてみる。
「いや、高校まで」答えは簡潔である。
「前に、佐山さんのとこの三男が東京の大学に行ったって聞いたけど」
「時代が違うの。昔は大学なんて、当たり前じゃなかったんだから。特に、あんなド田舎じゃなおさらでしょ。高校に通うことすら、選択肢のひとつだっただろうし」
 なるほど時代は変わったものだ。私は漠然とでも、自分が高校や大学に行くのを普通のことだと考えている。亮太君は大学院というものまで視野に入れているらしいから、大学進学どころではない。父は大学にさえ行っていれば、あんな工場に勤めずに済んだのだろうか。父は、今日もまだ帰ってきていない。
「沙織、足りないでしょ。これあげる」
 急に姉がそう言って、私の皿にエビフライをのせる。一応お礼を言った。返せと言われないうちに、口に入れてしまう。自分から渡してきたくせに、姉は名残惜しそうな顔をしていた。姉はそういう女である。特になにか魂胆のあるときは、そういう顔をする。私ぐらい長く姉と付き合っていると、何が目的なのかぐらいすぐにわかってしまうのだ。
「ね、沙織はこの頃どう?」と姉が言う。
「どうって、なにが」
「沙織の、最近の、調子」
「いや、いいけど……」
「近頃、沙織、変に勉強したり、どこか遊びに行ったりしてるからさ」
「はあ」
 私はもはや、姉とは関わらない構えでいる。姉もとうとうそれに気が付いて来たらしい。だから、私の気を引こうとしているのだ。自分なりに面白い話をしたり、自分の好きなおかずを貢いだり、姉としては精いっぱいやっているつもりなのだろう。なのに私からの反応は薄い。きっと自覚がないだろうが、姉はあからさまに不服そうな顔をしている。姉はキャベツの千切りにしたのを箸でいじくりながら、何か言いたそうにして、しかし結局飲み込んだ。私の考えはとうに別所に移っている。
 頭の中には、主題のない、色々な映像が浮かんでいた。ブランコから上流のほうを見た景色、突然現れた男の子、祖母、亮太君、ちりんちりんという鈴の音とじいさん、いかにも悪徳といった革張りのチェアに深々と腰かける男、父はそこでひどい労働を強いられている、祖母の家の台所、裏山の滝、ふわふわ揺れるタンポポ……。
 私はそこで我に返った。母が箸をコップにぶつけて、カチンと音をたてたのである。私はふたたび空想をはじめようとした。しかし今度はうまくいかなかった。目の端で姉がちらちらしている。わざわざ顔を向けて確認しやしないが、なんだかこっちを見ている気がして、どうも居心地悪い。私は皿をきれいに片づけて、二階へ上がった。
 やっと落ち着けるかと思ったら、間もなく姉もついてきた。
「明日は久しぶりに二人きりで出かけない?」
 と言う。これも最近よく聞く文句である。だからそのたびに言ってやるのだ。せっかくだけども、明日は用事があるから、と。いつもはそれであきらめるのだが、今日はしつこかった。「沙織のために空けておいたんだよ」と恩着せがましく来る。
 自分でも、この頃、姉に対する当たりが強いことは気が付いていた。やめなきゃいけないという思いももちろんある。しかしどうしても、腹が立ってしょうがない。一挙手一投足、ともかく腹が立つ。ぐうたらなところも、能天気なところも、相手が怒っているとみるや媚びてくるところも、全部嫌いだ。そうして、そんな人間が自分とまったく同じ姿をした双子だというのが、嫌で嫌でたまらない。
 それで私は、つい嫌味を言った。
「明日は髪でも切りにいこうかな」
 姉は目を丸くした。丸くしたのを、私ははっきりと見た。自らを鏡に映したようなその女の目がじわりとうるむ。
 姉はなにか叫びながら部屋を飛び出して行った。私はふんと息をついて、ベッドに寝転がる。時刻は七時過ぎである。父はやはりまだ帰らない。
 それから五日ほどが経った。姉は決して私と口をきかない。亮太君は変わらぬ様子で公園で待ってくれているが、ますます夏期講習へ出かける頻度が増えて来た。学校の友達とは、やはり一度も遊んでいない。未だに遊ぶ気は起こらない。
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