第42話

文字数 1,471文字

 景勝は亡き父の跡を継ぎ上田長尾家の当主に一度はなったものの、まだ幼い身で不憫という理由で謙信の養子になった。景勝の身は安泰になったが、上田長尾家は事実上断絶した。そのことを恨みに思ったのか、それとも景虎が義母である仙洞院に良くしてくれて情が移ったのか。どちらにせよ、すでに俗世を離れた仙洞院には顕然たる力はないが、それでも景虎側についたという影響力は大きかった。

 そのことは軒猿を通じて景勝にも報告された。彼の眉間には深くしわが刻み込まれ、口を真一文字に引き結び、ひと言も発しなかった。仙洞院がなぜ実子である自分の味方をしないのか、おぼろげながらに理解していた。

 「春日山城の金蔵と兵器蔵を今すぐ押さえよ。義父上(謙信)の使われていた印判と、祐筆衆も忘れるな」

 味方をしてくれる重臣たちに、矢継ぎ早にそう命令を下すと、景虎勢に奪われる前にそれらは景勝の掌中におさめられた。

 後に御館の乱と呼ばれるこの御家騒動は、最初は北条と武田を味方につけた景虎側が優勢であった。しかし資金と兵器という、戦をする上で生命線とも呼べる補給線を確保した景勝側は、次第に劣勢を跳ね返していった。関東へ散った軒猿たちが、北条家と敵対する佐竹氏と宇都宮市氏を煽動する噂をばらまき、北条家と争わせるように仕向けたことも景勝側が優勢に傾いた一因にもなっている。

 一方の武田家。家督を継いだ勝頼は、継室の身内である景虎の味方を最初はしていた。春日山城へ進軍していた勝頼は、両家の因縁深き川中島付近で宿営した。敵地にも近いとあって、勝頼は半武装のまま身を横たえていた。ふと、濃い血のにおいに意識が覚醒していき、枕元に置いた小太刀を引き掴む。

「お静かに願います」

 黒い忍び頭巾に顔を隠した、太い男の声が枕頭から降ってきた。懐かしい、亡き信玄に似たその声の持ち主は、周到に勝頼の間合いの外に身を置いていた。

「わたくしめは一介の三ツ者にすぎませんが、法性院(信玄のこと)さまの御遺言を、上様に思い出していただきたく無礼を承知で、推参いたしました」

 亡父を彷彿櫓とさせる声音のせいか、剛毅をもって知られる勝頼も、だんだんと冥府から信玄が助言を与えに来たのかと錯覚するほど声に聞き入っていた。

「思いがけず謙信公が身罷りましたが、それでも上杉を頼り手を結ぶことこそが、法性院さまのご意志。謙信公の甥である景勝殿こそが、血筋の面から言っても正当な後継者であると思われます。一方の景虎殿は、法条の人間。どちらにお味方をするのが、亡き法性院さまの御心に敵いましょう。
 ――よく判っておろうな、勝頼。ゆめゆめ道を(たが)えるでないぞ」

  最後のひと言は、まさしく信玄そのものの声だった。勝頼は全身を冷や汗で濡らし、ひと言も発せないままでいる。一度は覚醒したはずの意識は、いつしか耐えがたいほどの眠気に襲われ、夢うつつの中で景勝とは争わぬと亡父の声に誓っていた。

(これでよし)

 眠り行灯の中に粉末状の眠り薬をくべつつ、勝頼の潜在意識に暗示をかけていた佐之介は、完全に寝入ったことを確認すると立ち上がった。燃やされた眠り薬の煙はいつの間にか部屋に充満しており、佐之介も自身の身体を浅く傷つけながら眠り込まぬよう、静かに脱出を試みる。

 この宿営に潜り込むまでに、幾度か三ツ者たちとやり合った。佐之介の身体についた血はほとんどが返り血だが、彼とて無傷ではない。忍びからしたら浅手の傷をいくつか負っているが、動きには何の支障もない。すでに曲者が潜り込んだと知れ渡っただろうから、一刻も早く抜け出さねばならない。
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