第31話

文字数 1,490文字

 九月九日、子の刻(午前一時時頃)。武田の妻女山攻略軍、総勢一万二千名あまりは密やかに海津城を抜け出した。目指す妻女山がもぬけの殻とも知らず、夜陰に乗じた不意打ちで大いに慌てふためかせてやろうとの気概に満ちている。上杉軍は妻女山が空と知った別働隊を迎え撃つために、甘粕隊を十二ヶ瀬に残して、八幡原を目指していた。

「使い番、これへ」

 政虎の命を受けて使い番が、直江隊へと走った。直江隊千五百と補給の小荷駄五百を、春日山へ帰還する道を確保するために横山城へと一足先に向かわせるためだ。政虎は八幡原に着くと、魚鱗の陣形を敷いた。三角形のような形の陣形で底辺の中央にあたる部分に、総大将の政虎をはじめとする旗本が布陣する、中央突破を図るに相応しい陣形だ。

 人馬の足音を極力殺し、各隊を布陣させていく。千曲川を挟んで海津城が見える。武田に気付かれていないだろうか。上杉軍の誰もが言い表しようのない緊張に包まれた。政虎が八幡原で陣形を整え始めた頃、信玄も夜が明ける前に布陣を終えようと海津城を発った。わずか八千という軍勢だが妻女山に仕掛けた別働隊一万二千あまりが、必ず上杉軍の勢力を削いでくれると確信していたため、この人数でも不安を覚えていなかった。卯の刻(午前六時頃)、妻女山別働隊は上杉軍の紙幟や篝火を目印に突入を開始した。別働隊の総大将である馬場信房は、すぐさま異変に気付いた。

「なんだこれは。もぬけの殻ではないか!」

 人影に見えたものはかかしで、生きた人間などいない。後から突入してきた真田も高坂も、あまりの光景に一瞬だが呆けた表情になった。

「これはなんとしたことだ。まさか軍師どのの策が、見破られていたというのか?」

 真田幸隆が思わず声をあげた。幸隆の声を聞いた馬場信房は、すぐさま他の九将に向けて直ちに下山し、上杉の後背を討つことを宣言する。だが高坂弾正忠昌信は、海津城を乗っ取られる危険性にいち早く気付いた。

「海津城をおろそかにはできん。儂は来た道を戻り、海津城の守備につく」
弾正忠(だんじょうのじょう)どの。この別働隊の総大将を上様から命ぜられたは、拙者でございますぞ。拙者の命令は上様の命令。それに背くは、上様に背くと同義ぞ」
「儂は上様から、海津城の城主を命じられた。城を敵に奪われるわけにはいかんのだ」
「やめなされ。今は争うている場合ではない。弾正忠どのは、城主としての務めを果たすが良かろう。上杉の後背を討つのは、我ら九将で問題あるまい」

 睨み合った二人を仲裁するかのように、飯富(おぶ)虎昌が割って入った。信玄の嫡男である太郎義信の傅役を任された彼の言を退けるわけにはいかず、馬場信房はしぶしぶ矛を収めた。

「では、これにて」

 高坂弾正忠は諸将に一礼すると、自分の隊を素速くまとめ、来た道を急いで下りていった。

「我らも参りましょうぞ」

 飯富の言葉に馬場信房も気を取り直し、千曲川を渡るべく下山を開始した。十二ヶ瀬に着くと対岸には、甘粕隊が待ち構えていた。

「うろたえるな、数はこちらが圧倒的に有利。蹴散らしてくれる」

 高坂弾正忠昌信とやりあった怒りを甘粕隊にぶつけるかのように、馬場信房隊が錐のように突き進んでいく。待ち受けていたのが一隊だけと知った別働隊は、戌ヶ瀬へも移動した。

「むむ、やはり数が違いすぎる。全軍、後退しながら八幡原に合流せよ」

 巧みに敵軍勢を退けつつも、数には勝てず命令を下す甘粕景持。すでに武田の幾隊かが戌ヶ瀬を渡って八幡原を目指している。夜明けと共に千曲川周囲に広がる濃霧は、敵味方を問わず視界を塞がれたが、甘粕隊はそれでも徐々に戦場を離脱し新たな戦場である八幡原を目指した。
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