第6話

文字数 1,493文字

 翌朝。佐之介は定満に命じられて、毘沙門天の御堂にこもり祈祷をする政虎の護衛をしていた。これには他の軒猿たちも動員されており、佐之介は御堂の床下に潜り込んでいた。正門前には二人の小姓が、周囲の木々の間を軒猿たちが固め主君の暗殺および情報漏洩を防ぐ。

 水の入った(ふくべ)を持ち込んだ政虎は、護摩炊きをし一心不乱に祈りを捧げていく。一刻(約二時間)経っても、政虎の読経の力強さは変わらない。暑い夏の盛り。しかも狭い御堂の中で、護摩炊きをしているというのに。恐るべき集中力である。

(お屋形さまの祈りは、かように長きものであったか)

 初めて毘沙門天御堂の護衛を命ぜられた佐之介は、ここまでやるのかと驚いた。忍びは一カ所にじっと身を潜めていることに慣れているが、大名である政虎が熱気のこもった御堂の中で経をあげ続けるその精神力に、知らず知らず嘆息をもらした。やがて長かった祈りは終わり、佐之介の頭上で水を飲む気配が伝わってきた。床板を踏みならす音が響き、政虎が御堂を出る。同時に佐之介も床下から這い出し、春日山城内にある忍び小屋へ入った。

「おう、ご苦労でござった」
「暑いのう。今年の夏は格別に暑い」
「なんの、関東へ出陣していた頃よりは幾分、暑さはやわらいでおる」

 仲間たちと何気ない会話をしつつ、着替えを手にする。下働きの者たちが使う井戸へ向かう。諸肌脱ぎになった佐之介は水を張った手桶に手ぬぐいを浸し、汗と土埃に汚れた身体を丹念に拭い清めた。着物も、こざっぱりとしたものに替える。人心地つき、春日山城下にある定満の居館へと急ぐ。

「駿河守さま」
「おお、戻ったか佐之介。して、お屋形さまにお変わりはなかったか」
「はい、つつがなく」
「それは重畳。お屋形さまは一度御堂に入られると、なかなか出てこられぬ。今日はまだ早い方じゃ」

 一刻も祈り続けて早いのか、と内心であきれた声をあげる。書き物をしていた定満は硯を文机の脇に追いやると、庭先で跪いている忍びに目を向けた。

「六右衛門から返書が届いてな。できるだけ早くきてくれとの事じゃ」
「では、明朝にでもすぐに」
「そうしてくれ。佐之介、上杉家と武田との争いは儂とある男の戦いでもあるのだ」

 どういうことだと目顔で問えば、定満は佐之介越しに誰かを見つめながら口を開く。

「武田に仕える、独眼の老狼を存じておるか?」

 佐之介の脳裏に、一人の男の名が浮かんだ。

 山本勘助。

 軍師として武田家に召し抱えられていると聞く。建築術にも長けており、川中島に築城された海津城は、勘助自らが検地し設計したと軒猿たちは掴んでいる。

「あやつと儂は、軍略を互いに駆使して戦っておる。無論、あやつも武将としての技量はある。しかし軍師としての力量に関しては、儂はあやつに負けたくないのじゃ」

 佐之介は、定満と山本勘助との因縁の深さを知る。

「儂の代わりにあの男が何を考えているのか、どんな軍略を練っているのか探りとって欲しい。おぬしの命が危険にさらされることは重々承知の上じゃが、やってくれるか」

 また頭を下げられた。ここまで自分を対等な人間として扱ってくれる定満には、感動と畏敬の念しか覚えない。佐之介は、がばと平伏する。

「我が命は駿河守様に捧げました。ご命令とあらば、一命を賭して、必ずや」
「うむうむ。かわゆげな若者よ、そなたのまっすぐな心意気に、儂も心を打たれておる。じゃが死ぬな。決してそなたは、儂よりも先に死ぬでない。よいな」

 忍びは己の感情に流されてはいけない。そう判ってはいるが、佐之介は目の縁に熱いものを覚えている。言葉はなくともこの主従は、互いの胸の内を充分に理解したようだった。
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