第9話

文字数 1,144文字

 新月の夜。
 星明かりの中でうごめく者は、獣か異形のあやかしか。

 ここ川中島に築城された、海津城付近をうろつく黒い影は、慎重に動いていた。大人の男が三人がかりで抱えても、まだ余るであろう大きな栃の木。その中程にできた洞の中に繁蔵は見取り図を隠した。なんとしてもそれを取り戻し、越後国へ持って帰らねばならない。近いうちに始まるであろう上杉と武田の戦いに勝利するためには、海津城の見取り図が必要だ。

 佐之介と別れすぐさま引き返してきた繁蔵は、武田の三ツ者の目を掻い潜りながら栃の木を目指していた。佐之介が大蔵経寺山に潜んでいることを、繁蔵は知らない。知っていたら即座に栃の木の場所を教え、二人で取り戻しに行けただろう。一人での忍び働きよりも、二人の方が背後が安全だ。なにより万が一にも見つかったとき、片方を囮にすることができる。

 繁蔵を含めた十人の軒猿が海津城を探ったことが発覚して以来、この辺りの警護が一層厳しくなっていた。繁蔵は手練れの忍びだが、その彼の腕をもってしても、これ以上近づいては危険だと脳裏で警鐘が鳴り響く。

(やはり、これ以上は進めぬか。さいわい、まだ見取り図は見つかっておらぬようだな)

 あれが見つかっていれば、警護はもっと物々しいものになっているはずだ。繁蔵がここまで潜り込めるはずもない。

(ならばこのまま甲斐国にいて、出陣する信玄めの素っ首を、掻き斬ってくれよう)

 信玄の暗殺命令など、頭領から出されていない。しかし第一線で働いている優れた忍びには、命令とは別に己の直感に従って動いた方が得策と判断した場合には、独断専行も良いとの暗黙の了解がある。敵の総大将を暗殺する機会に恵まれたとき、いちいち上の了承を得ていては好機を逃すことになる。繁蔵はいま、単独で甲斐国にいる。うまくいけば、信玄の首級(みしるし)を挙げることも可能だ。

(俺ならば、できる。そうすれば三度(みたび)も繰り返しながら、決着がつかなかった武田との戦も終わる。北条を攻める際に、背後を脅かされる危険性が低くなる)

 考えれば考えるほど、いま自分が甲斐国にいることは天の配剤ではないかと思うようになった彼は、無意識に拳を握りしめた。

(そうだ、きっとそうだ。俺がこの手で、信玄の首を挙げる。この俺の手で、お屋形さまのご心痛の一つを取り除くのだ。俺の手で!)

 繁蔵には珍しく、我を忘れてしまった。単独の忍び働きがいかに危険なものか、普段の彼ならば重々承知している。なのに己しか甲斐国にいないという現実に、興奮し我を忘れてしまった。

(そうと決まれば、どこか適当な洞の中にまた身を潜めよう)

 武田忍びにはあまり、猿飛び術が得意な者がいないようだ。繁蔵は万が一のことを考えて、見取り図を隠した栃の木とは離れた(なら)の木を潜伏場所として定めた。
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