第33話

文字数 1,496文字

 その頃、佐之介は十二ヶ瀬を渡りきり斃した武田の足軽から具足を奪い、死した甘粕隊の指物を背に指した。途中で馬を奪い八幡原を目指す。

(どうか宇佐美の殿、ご無事で)

 共に死のうぞと誓い合った主の軍勢はどこにいるのかと、佐之介はそればかりが気がかりだった。迫り来る武田勢を槍で突き殺し、奪った太刀で斬り伏せる。こうも乱戦混戦状態だと、自分がどこに居るのかすらも判らなくなる。自慢の視力も、宇佐美隊の指物を見つけることが叶わなかった。

(たしかお屋形さまのお傍近くに、陣を張るよう命じられていた。と、なれば)

 上杉陣営の後衛へ身体を向け、忍びとしての体術を存分に発揮しながら敵をかき分けていく。旗本衆も、総大将である政虎自らが太刀を振るうほど、上杉陣営も奥深くまで侵攻を許していた。政虎のすぐ傍で、老体とは思えぬほどの見事な太刀さばきで、定満も奮戦していた。

(これほどとなるならば、佐之介を物見に出すのではなかった)

 後悔の念に苛まれるも、今更遅いと雑念を振り払い太刀を振るう。本陣に攻め込まれたと言っても、数の差は大きくすぐに政虎の周辺に敵が居なくなっていった。

「駿河守さま」
「佐之介、戻ったか」

 血脂に塗れた太刀をひっさげ、足軽姿の佐之介を見て、ようやく定満は安堵の息を漏らした。
「ご無事でしたか」

 すでに甘粕隊の指物など、どこかに飛んでいる。近くに落ちている宇佐美隊の指物を新たに指すと、政虎の前で膝をついた。

「軒猿の菊池佐之介と申したな。我と共について参れ」

 言うなり政虎は、愛馬である放生月毛に跨がり、わずかな手回りの者を呼び寄せた。

「お屋形さま、何をなさるおつもりで?」
「駿河守、生臭坊主めの首を挙げてくるぞ」

 その台詞の意味するところを瞬時に悟った。

「お屋形さま」

 慌てて自分もついて行こうとするが、そこへ諸角隊の一部が雪崩れ込んできた。上杉の総大将が馬を駆っている姿を見て、手柄を求めて群がってくるが、政虎はそれをものともせずに斬り伏せる。手回りの者たちも大いに奮迅した。定満は主君の後を追うことを諦め、傍で太刀を振るう信頼の置ける軒猿に命じた。

「佐之介、お屋形様をお守りいたせ。頼んだぞ」

 定満の命令を受け、すぐさま佐之介は、放生月毛と併走するように駆けだした。血脂に塗れて、切れ味の落ちた太刀を投げ捨てた。冑割りや苦無といった手に長年馴染んだ武器を駆使し、政虎の後を追う。道中で諸角隊の大将である、諸角豊後守虎光の首を佐之介は挙げた。一介の忍びである佐之介には、諸角虎光の首など邪魔なだけなので、欲しい奴にくれてやることにする。

 足軽が馬に併走する姿は、敵味方を問わず奇異なものに映った。しかしそれ以上に、馬上の政虎の姿に武田勢が色めき立った。まさか上杉の総大将が、わずかな供回りのみで疾駆しているとは夢にも思わなかった。織田信長が今川義元の首を挙げた先例を思い出し、我先にと群がる。

「邪魔だていたすな、下郎どもが!」

 馬上の政虎を護るように供回りと、佐之介が武器を振り回して主君の進む道を開く。鬼神のごとき気迫と突進力に、やがて政虎は武田本陣の奥深くへと突き進んだ。佐之介もぴったりと離れない。

「菊池佐之介とやら、儂を見事に武田の古狸の許まで連れて行け」
「はい」

 定満の命令もあり、いまはとにかく総大将を護りながら、信玄の首を挙げることを第一に考えた。やがて武田本陣を示す陣幕が目に入ると、政虎の闘志が一層燃え立つのを、佐之介は肌で感じた。

「行くぞ者ども。毘沙門天のご加護を受けたこの儂の、調伏の刃を浴びせてくれようぞ!」

 白い鬼神は、ただひたすらに本陣めがけて突っ込んでいった。
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