第5話

文字数 2,531文字

「この老体には、暑さがだんだんと堪えてくるわい。そなたは若いゆえ、そんな感覚は判らぬじゃろうな」

 枇杷島城は、宇佐美定満の居城である。越後国へ戻ってすぐに佐之介は、定満の傍仕えをすることになった。とはいえ多くの軒猿たちがそうであるように、普段は小者のひとりとしてだが。佐之介はいま、定満と同じ部屋にいた。これは破格の待遇であるために、彼もどうしてよいのか判らない。一介の忍びが雇い主と同席するなど、通常ではあり得ないのだ。

 いつもどおり庭先で待機していたところへ、定満から気さくに
「そのようなところでは話ができぬ。(ちこ)う寄れ」
 と命じられたのだ。

 縁側の縁から部屋の隅に。もそっと近うと請われるまま、あれよあれよと互いの膝頭の間に拳ひとつぶん空けての距離までになってしまった。もしも佐之介が裏切り者であったなら、定満の命はとうの昔に消えている。だがこの老武将は血色のよい顔をほころばせて、畏まっている佐之介を面白そうに見つめている。

「名はなんと申したかの、若者よ」
菊池(きくち)佐之介でございます、駿河守(するがのかみ)さま」
「ふむ。では佐之介、そなたは自分がなぜ儂の許にくるよう命ぜられたか判るか?」
「いいえ。皆目見当もつきませぬ」

 正直な感想だ。無礼な物言いかと瞬時に後悔したが、いまさら口から出た言葉は覆らない。その場で手討ちになりはしないが、頭領に顔向けができぬなと小さく内心で息を吐く。しかし定満は快活に、さもあろうと笑い飛ばした。

「人心を巧みに操り、化生の者と呼ばれる忍びといえど、拙者は未熟者ゆえ」
「佐之介、年齢(とし)はいくつじゃ」

 はぐらかされたように感じつつも、佐之介は素直に二十六と答える。

「若いのう。ゆえに、澄んだ可愛(かわゆ)げな目をしておる」

 佐之介は定満の本意が判らず、戸惑っている。それを表情にも気配にも表すほど未熟ではないが、年の功というべきか定満は微妙な心の動きを察知しているようだ。ここらが潮時と判断したのか、どことなくいたずらめいた表情を消すと佐之介の目をじっと見た。

「そなたを勘太郎から貰い受けたのには、理由がある。軒猿は今のところ儂の配下になっておるが、儂も年じゃ。大勢の軒猿を束ねていくのが、少々おっくうになってきてな。勘太郎とは別に、儂直属の自由な軒猿が欲しくなった。儂個人の采配で動く、自由な軒猿が」

 その刹那、好々爺といった定満の雰囲気は一気に消え失せ、あまたの死線をくぐり抜けてきた、老獪な武将の姿へ変貌を遂げていた。

「そなたも知っての通り、お屋形さまは実にまっすぐな御気性の持ち主。敵はすべて戦場(いくさば)で討つべしといったお考え。忍びを使った暗殺や謀略は、邪道とお考えになる」

 上杉家の軒猿は情報を探りとることだけに、今のところ使われている。もっとも政虎のあずかり知らぬところでは、それ以外のことも定満の命令によって行われている。

「武田の生臭坊主のことは、そなたもよう存じておろう」

 二年前に出家し、法名を信玄とした甲斐の虎こと武田晴信。因縁深き両雄が川中島でまみえること過去三度。上杉家にとっては背後をいつも脅かされる、厄介な宿敵。

「あの生臭坊主さえ葬れば、後嗣の太郎義信などまだまだ若輩者。武田家の弱体化は免れぬ。お屋形さまに内密で事を起こすには、勘太郎から離れた軒猿が必要なのじゃ」

 ここまで言われてようやく佐之介にも、定満が自分に期待することが飲み込めた。自分の何が気に入ったのか判らないが、政虎に内緒で武田信玄を暗殺する軒猿になれということだ。

「儂はずっと若い軒猿を探していた。ただ若いだけでは駄目じゃ。腕が立ち、己一人の才覚で事を成し遂げられる者でないと。そなたの目を見てこれは、と初めて思うた。そなたのまっすぐな、意志の強そうな目は好ましく映った。頼む佐之介、この老体に代わってお屋形さまのために一肌脱いでくれぬか。この通りじゃ」

 なんと定満が自分に頭を下げた。忍びは使い勝手のよい道具、武士と見なしていない者が多い中で、これほどの礼を尽くされたことは初めてだった。若い佐之介は感動している。熱い衝撃が全身を駆け巡った。知らず知らずのうちに全身が細かく震えた。

(俺はこの殿の為になら、いつにても喜んで死ねる!)

 瞬時に決意した。決意と同時に、定満個人の軒猿になることも承諾した。

(やろう、やってのけよう。道具ではなく人として認めてくれる、この駿河守さまのために俺の持つ忍びの技術(わざ)すべてを捧げよう)

 感動に打ち震えながら佐之介は、静かに平伏した。

「俺のような未熟者を、そこまで買ってくださる駿河守さまの御為に、この佐之介は命をかける所存にございます」
「おお、礼を申すぞ佐之介。儂のため、ひいてはお屋形さま、この上杉家の為に粉骨砕身の覚悟で働き抜いてくれ」
「はい」

 佐之介に迷いはなくなった。疑念も消え失せた。祖父とも呼べる年齢の定満の男気に惚れ込んだ。己の血が熱くなるのを、佐之介は覚えていた。

「関東より戻ってすぐで何だが、頼みを聞いてくれるか佐之介」
「何なりと、お申し付けください」

 この言葉に定満はまた好々爺とした笑みを浮かべ、何度も頷く。

「うむ。ではそなたはしばらくの後、甲斐国に潜入し隠し軒猿である六右衛門(ろくえもん)の許へ行くのじゃ」

 定満は甲斐国の地図を広げ、躑躅ヶ﨑居館の付近にある大蔵経寺山を指した。奥秩父山塊に含まれるそこは、まさに敵地の中心。そこに隠し軒猿がいるという事実に佐之介は驚いた。そんな彼の表情を読んだのか、定満は薄く笑みを漏らす。

「勘太郎はもちろんお屋形さまも知らぬ。儂のみが知る忍びよ。年は六十を超えておるが、腕は確かじゃ。樵夫(きこり)として、三十年ほど前から住み着いておる。そなたは甥ということにすればよい」

 鳩で使いを飛ばすと約束した定満は、今日はゆるりと身体を休め十日後に出立せよと命じた。鍛え抜かれた忍びの身体は強行軍にも耐えられるが、久しぶりに越後国に戻ったという安心感も手伝って、若干の疲労を覚えていた。

 下男部屋の片隅で寝起きすることになったが、ここにも軒猿たちは詰めている。佐之介が新たに加わっても、誰も気にもとめない。軽い挨拶を済ませ、ようやく佐之介は久しぶりに周囲を警戒することなく、深い眠りにつくことができた。
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