第34話

文字数 2,071文字

 その頃の信玄は未だ帰還しない別働隊の到着を、今か今かと待ち侘びていた。しかしそんな中で届いた一報は、信繁討ち死にと同等の衝撃を与えるものだった。

「申し上げます。軍師どのが、山本勘助どのが討ち死にございます」

 信玄が頼みとしてきた両腕が、根こそぎもぎ取られた瞬間であった。これまで幾多の軍評定で、信繁と勘助の意見を頼みにしてきた信玄にとって、この戦で失ったものの大きさに改めて目がくらむ思いだった。

「父上、もう我慢ができませぬ。御免」

 ついに堪忍袋の緒が切れた太郎義信が、信玄の命令を無視して自軍に戻り出陣の命令を下した。信玄には、息子を止める気力がなかった。

(信繁、勘助。この戦は、負けかもしれん)

 信玄らしからぬ弱音がつい、心中にこぼれたとき。旗本衆の怒号が一段と大きくなっていることに気付いた。騒動に目を向けると、そこには。

 白頭巾で頭を覆い遠目には白馬にも見える方生月毛に跨がり、愛刀の小豆長光を手に迫ってくる武者の姿。付き従う供回りはわずか五、六名ほど。側近中の側近であろう彼らは、同じく手練れの武田旗本衆の猛攻を難なく凌ぎ、主君のために突破口を開いている。

 深紅の法衣の上に具足を着けた男が、床几に腰掛けたまま身じろぎもしない。佐之介は懐に忍ばせていた袋を取り出し、三ツ者の三太夫を仕留めたときと同じくトリカブトの毒を塗り込めた手裏剣を幾本か取り出した。そして今、まさに投げ打たんと腕を上げた刹那。

「大将首を挙げようという大事に、軒猿が差し出がましい。控えよ!」

 政虎の一喝で、動きが止まってしまった。この一言で、やはり軒猿とは所詮、道具に過ぎぬのだと思い知らされてしまった。定満が己を人として武人として扱ってくれるのに対し、政虎はやはり便利で替えの利く者としか見ていないことに、心の何かが音を立てた気がした。れでも定満の政虎を護れという命令を思い出し、群がる武田の旗本衆を薙ぎ払う。

(確かに俺は一介の軒猿に過ぎん。だが、軒猿とて人の子だ。武士の端くれだ。手柄を立ててはいけないのか?)

 先ほど打ち捨てた、名のある武将首が惜しくなった。認められたい、陰に生きる軒猿ではなく本物の武士になりたい。佐之介の心に野心が湧き、片っ端から敵を屠っていく。

 その間に政虎は信玄と間合いを詰めていた。

「毘沙門天の天罰を受けよ、覚悟!」

 馬で駆けながら、政虎が凄まじい斬撃を浴びせた。信玄は立ち上がるでもなく咄嗟に軍配を振り上げ難を凌ぐ。その際に軍配は真っ二つになり、仰け反った信玄の額も浅く斬られた。

「上様!」

 旗本衆が信玄を護るように、集まってくる。馬首を巡らせ態勢を入れ替えた政虎が、二の太刀、三の太刀を浴びせる。刃風が大気を揺らす。

「上様をお守りしろ、早く!」

 旗本衆が槍衾を作りこれ以上の接近を阻んだ。

「おのれ下郎ども、推参な!」

 いきり立った政虎が槍衾など気にもとめず押し入ろうとしたが、誰かが方生月毛の尻に槍を突き込んだ。甲高い嘶きを上げて狂奔する愛馬に、さすがの政虎もここが潮時と判断する。折悪しく妻女山を攻めた別働隊が、八幡原に到着した。背後で怒号が一段と大きくなっていた。

「悪運の強い生臭坊主め。次こそはその素っ首を、討ってみせる!」

 憎々しげに言い放つと、数を少し減らしたものの忠義に篤い供回りを引き連れて、日軍へと戻っていった。佐之介も後を追いかけながら、五つほどの首を手にしていた。名があるなしに関係なく、手柄を立てたという証を持っていなければ、その手柄を横取りされてしまうからだ。

「お屋形さま、なんという無体を」

 上杉本陣にたどり着くと、留守を預かっていた定満が声をあげた。だが政虎は意に介さず
「首を挙げ損ねた。今少しのところだったが」
 と忌々しげに言い放つ。

 馬上で荒い息を整えていると、ついに妻女山別働隊が八幡原に現れたという報が届いた。

「どこまでも悪運の強い奴め。このままでは我らは挟撃の憂き目に遭う。口惜しいが退却だ」

 すぐさま政虎は全軍退却を命じ、殿(しんがり)を再び甘粕隊に命じ、善光寺へと引き上げた。横山城に残していた直江隊と甘粕隊の計五千を、念のために後詰めとする。勝ち鬨をあげて海津城へ引き上げる武田に備え、直江隊と甘粕隊は三日ほど横山城に留まった後、越後国へと引き上げていった。

 上杉は主立った武将の討ち死にはなかったが武田は信繁、勘助の他に諸角や初鹿野忠次といった者たちが戦場に散った。上杉勢が引き上げた後、信繁戦死の場に赴いた信玄は弟の遺骸を抱き人目をはばからずに泣いた。

「信繁、信繁。そなたが居らねば、儂は誰に背中を預けたら良いのか。胸襟を開いて語り合えるのか。なぁ信繁、信繁よ!」

 信玄に付き従いその場に居合わせた者たちは、皆一様に亡き信繁の人柄を偲びむせび泣いた。信玄の号泣と旗本衆のすすり泣きが、しばらく千曲川の河岸に響き渡る。

 この第四次川中島合戦後、北信濃と川中島に勢力のある小大名たちは武田の傘下に入った。武田は人員に大打撃を受け、上杉は労力の割にこれといって得るものがなかった戦いであった。
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