第29話

文字数 1,387文字

 戦闘の気配を背中に感じつつも、佐之介は一心不乱に妻女山を目指す。無事に宇佐美定満の陣営にたどり着くと番卒たちに誰何される前に名乗り、仲間の案内で定満の御前に出た。定満は半武装で床几に腰掛けており、帰還した佐之介の無事を確かめると目を細めて喜んだ。

「駿河守さま、武田の策を掴んで参りました」
「なに、それはまことか?」

 好々爺とした表情が一変し、瞬時に歴戦の武将たる顔になった。事細やかに説明すると定満の顔は一層引き締まり、すべてを聞き終えると側近の者に向けて命令を下した。

「お屋形さまにお目通り願いたいと、先触れを出せ」

 小姓が陣幕を飛び出していくと定満は佐之介に向かって、そなたもついて参れと命じ、衣服を改める。やがて定満は、忍び装束のままの佐之介を伴って、政虎の本陣を訪れた。夜も更けた刻限であるにもかかわらず、政虎は忍びを伴った老武将の来訪に嫌な顔ひとつ見せず、悠然と床几に腰掛けていた。

「なにがあった駿河守」
「お屋形様、こちらに控えております軒猿の、菊池佐之介めが武田の策を探り当てて参りました」

 そこで定満に促された佐之介は、海津城で聞いた啄木鳥戦法の詳細を話し決行日は明後日の真夜中であると告げた。

「ふむ、重畳である。駿河守、儂は今まで忍びをあまり是としなかったが、そなたに任せていて良かったようだ。礼を言う」
「勿体なきお言葉にございます」
「菊池佐之介とやら。褒美を取らす、(ちこ)う」

 (おもて)を伏したまま近づくと、手を出せと言われた。やがてその両手に、ずしりとした重さの袋を乗せられた。直感的にこれは黄金と悟った佐之介は、政虎を伏し拝んだ。

「駿河守、全軍に伝えよ。今宵は最後の休息となるため、存分に躯を休めるようにと」
「御意にございます」

 面を伏したままの佐之介だが、主従の全身に気力が満ちているのが判った。ようやく敵の本意が判り、雌雄を決する時が来た事への気力の充実が痛いほどに伝わってきた。宇佐美家の陣営に戻ってきた二人は、人払いをすませると向かい合う。

「佐之介、ようやってくれた。ようもあの山本勘助の策を探り取ってくれた。この駿河守、心より礼を申す」

 そう言って、なんと頭を下げた。これを見て佐之介は慌てると同時に、深い感動を覚えていた。初めて枇杷島城で目通りしたときもそうであったが、定満は命を賭して情報をもたらす軒猿を粗略に扱わず、血の通った人間として平等に接した。それが若い佐之介にとっては、政虎よりもお仕えする価値のある主君として映っている。

「改めてお誓い申し上げます。俺は身命を賭して、駿河守さまのご命令に従います。お役にたちとうございます」

 両手をつき深々と頭を下げる佐之介に対し、定満はただ、目を細めて頷いただけであった。

「佐之介。明後日の決戦は、共に死ぬ覚悟で臨もうぞ」
「地獄の果てまで、お供つかまつります」

 主従はそう誓い合うと、どちらからともなく笑みをもらした。足軽のひとりとして宇佐美隊に属し、紛れているであろう敵の三ツ者を討ち果たす。これが佐之介の役目であった。上杉家の軒猿を束ねているのが、宇佐美駿河守定満であるということは武田方も把握済みだ。諜報戦を今後有利にするためにも、また軍師的立場にある定満の首を挙げることは、武田は何としても早目に成し遂げねばならない重要事項だ。その夜から佐之介は定満の傍を片時も離れず、三ツ者の襲撃に備えた。
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