第30話

文字数 1,518文字

 翌日、海津城からいつも以上に炊煙が上がっていることを見届けた政虎は、佐之介がもたらした情報の正確さに内心で感心しつつも傍に控える諸将たちに向けて、
「見よ。今日は今までと違って炊煙が絶えず上がっておる。皆の者、決戦は近いぞ。今宵はこの妻女山を下り、八幡原へ陣を敷く。よいか、決して敵に気取られるな。馬の嘶きも抑えるよう、万難を排して行動せよ」
 と、下知した。

 妻女山には紙幟を立て、篝火もいつも以上に多く燃やし未だ上杉軍はここにありと思わせておいた。そして亥の刻(午後十一時頃)、上杉軍はかねてよりの手筈通り妻女山を下山し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬、雨宮の渡から千曲川を渡った。できるだけ音を立てないよう気を配りながら下山するも、大軍が移動するために気配はわずかながら生じる。軒猿たちは、妻女山の様子を探りに来ている三ツ者たちの口を塞ぐために四方八方に散っていた。佐之介も定満の傍を離れたくなかったが、この移動が知れたら何もかもが水泡に帰すと諭され、しぶしぶ海津城に近い猫ヶ瀬側の山裾を見回っていた。

 今夜の空気は、更に冷え込みを増している。まだ呼気は白くはならないが、日を追うごとに冷え込んできた。夜空を見上げながら、佐之介は明朝は霧に包まれるなと内心で呟いた。その刹那、常人には感じられない異様な気配を感じた。咄嗟に手近にあった木に飛び移り、息を殺し気配を絶つ。かすかだが闇夜が揺れ動き、忍び頭巾で顔を隠した三ツ者二人が警戒しつつ走り抜けようとしていた。

(やはり探りに来たか)

 トリカブトの毒をたっぷり塗りつけた手裏剣を取り出し投げ打つ。放たれた気配を感じ取った三ツ者たちは斜めに飛んだが、一人はふくらはぎにそれを受けた。即効性は薄いものの、血管に入り込んだ猛毒は全身を蝕んでいき、戦闘力を大いに削いだ。完全に躱しきった一人は、同じく手裏剣を牽制で投げ打ちながら、佐之介めがけて走り寄ってくる。二人の忍び刀が空中で交差し、ほぼ同時に足が地面を蹴った。刃を振るいつつ、蹴りを入れたりと変幻自在の攻撃を加える佐之介に対し、三ツ者も焦る様子も見せずにいなしていく。

(できるな)

 二人は互いに思った。佐之介は知る由もなかったが、この三ツ者は繁蔵を拷問した三四郎である。佐之介は於須恵と弥助の仇であり、三四郎は大事な兄弟弟子の仇。互いに浅からぬ因縁があるとは知らずに、生かしてはおけぬと戦いを繰り広げていた。どちらも身が軽く、素早いのが身上。互いに譲らぬ動きの早さで、木々の間を駆け巡る。しかし忍び同士の戦いは長いようで短い。二人の声なき闘争も、少し息が上がり始めたところで唐突に決着がついた。

 幾度目かのすれ違いざま、佐之介の吹き矢が三四郎の頸動脈に突き刺さった。この吹き矢にもトリカブトの毒を塗り込んであったので、三四郎は掻きむしるような仕草をした後に膝をついた。毒の成分を濃縮して塗ってあるため、回りが早かった。しかし用心をした佐之介は、苦無を喉と見えている左目に打ち込んだ。投げ込まれた勢いも手伝って、三太夫の身体が大きく後ろにのけぞり倒れた。

「き、さま」

 完全に毒が回ったのだろう。明瞭な言葉はそれが最後だった。何かを掴もうと伸ばした左手が、やがて虚しく地面に投げ出された。死んだふりをしていないか、石つぶてを投げてみるが、もうぴくりとも動かなかった。念のため一刻(二時間)ほどこの周囲を警戒し、もう敵は居ないと判断すると、佐之介は大急ぎで十二ヶ瀬を目指して走り出した。敬愛する宇佐美駿河守定満の御身を護るために。

(駿河守さま、いや宇佐美の殿。どうかご無事で)

 佐之介はいま軒猿の一員でありながら、定満直属の忍びとして山中を走り抜けていた。
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