第19話

文字数 2,171文字

 武田軍が甲斐国を出立する様子を見せ始めた。警護が厳しく潜り込めない躑躅ヶ先居館の探索を諦め、佐之介は六右衛門に海津城へ行くと告げた。

「ならば駿河守さまへの連絡は、わしがひとっ走りしてやろう」
「しかし、それで万が一のことがあっては」

 案ずる佐之介に六右衛門が目を細めた刹那、その小柄な体躯から強烈な殺気を迸らせた。それは佐之介が、思わずたたらを踏むほどの圧力で背に冷たい汗が噴き出した。同時に今の己の技量では、六右衛門にかすり傷一つ付けられないだろうと、確信した。蛇に睨まれた蛙の如く、まったく身動きができない。老いて忍び働きが満足にできなくなったと宇佐美定満は言っていたが、実際に相対してみれば実力差は歴然としている。なるほど、これほどの腕前だからこそ、今まで正体を気取られずにいられたのかと納得した。長い時間、睨まれていたように感じたが不意に六右衛門は目を逸らし、殺気も収めた。

「どうじゃな、これでもまだ不服か?」
「参りました」

 佐之介は苦笑するしかない。

 翌日。

 蝉時雨が姦しい中、穴を掘る佐之介が居た。密かに人ひとりが身を隠せるほどの縦穴を掘り細竹を細かく編み土や草、枯れ葉などをかぶせて穴の蓋とする。穴が崩れぬよう伐採した枝で補強をした。海津城北の山中にある獣道にそれを造り、ここを海津城探索のねぐらに決めた。敵の目と鼻の先。いつ何時、武田の三ツ者に発見されるやもしれぬ場所だが、ここまで深く潜入せねば探り取ることは不可能だ。もとより命はないものと覚悟を決めている。

 忍びの携帯食料を噛みつつ、出来上がったばかりのねぐらに身を潜ませ夜を待つ。昼間に変装をして出歩いても、却って怪しまれるだけだ。夜の闇を利用し、昼間の何倍にも膨れ上がって居るであろう三ツ者の警護をかい潜って、海津城に潜入するなど自殺行為に等しい。だが、それでもやらねばならない。息を殺し、己を大自然と一体化させる。五感を研ぎ澄ませ、わずかな異変も逃さぬよう緊張感を適度に高める。

 昼夜を問わず、三ツ者たちの警戒がさらに厳しさを増した。まるで躑躅ヶ崎館並みだと佐之介は内心で息を吐くと、それでも辛抱強く穴の中で息を潜めていた。海津城周辺が慌ただしさを増していく。物々しい空気と、鍛え上げられた聴覚はおびただしい数の足音を捉えていた。山中にいても、それくらいは判る。緊張感が以前よりも増した。

 事実、信玄は海津城に入りはしなかったものの、道中で味方を増やしつつ、最終的には二万余の軍勢を率いて川中島方面へと至った。これが二十四日のことである。政虎と定満の読み通り、約八日で古府中から川中島へ現れた。千曲川を挟んだ茶臼山に信玄は本陣を置き、上杉軍の補給路と退路を断つべく河岸沿いにも部隊を配し、様子を見ることにした。こうなると女である於須恵は邪魔になるだけなので、夜陰に紛れ弥助と共に海津城の仲間の許へと戻る。

「戻ったか弥助、於須恵」

 虫の息となっている繁蔵は、浅く短い呼吸を繰り返しながら、ただ転がっていた。全身には浅深問わず刀傷があり、火傷もひどい。拷問の現場に慣れていない於須恵が思わず目をそらせると、仲間が繁蔵の髷を掴んで引き起こした。事情を知らない二人に、説明するかのように。

「二人とも。こいつが過日、上様のお命を狙った慮外者だ」

 それを聞いた刹那、於須恵の目の色が変わった。あの日、自分が今少しのところまで追い詰めた憎き男。凄惨な拷問の痕で気づくのが遅れたが、よくよく見れば間違いなくあのときの曲者であった。

「この、痴れ者めが!」

 侍女として信玄の身辺警護を仰せつかっている於須恵は、自分の命よりも大事な主君の命を狙った曲者に強烈な殺意を覚えた。懐に隠し持っていた苦無を引き抜き、手裏剣のように投げ打った。それは正確に繁蔵の心臓部へ突き立ったかのように見えたが、傍にいた三ツ者が素早くそれを弾き飛ばす。

「短気を起こすな於須恵。まだこの者から、必要なことを聞いておらぬ」
「聞かずとも、上杉の者でございましょう。即刻くびり殺して、上杉の陣に放り込めばよろしいではありませんか」

 怒りで我を忘れている於須恵に対し、皆は小さく首を振る。

「口の堅い奴で、頑として仲間がいるのか話そうともせぬ」
「仲間がいようがいまいが、こやつはもう虫の息。いっそのこと」

 於須恵の剣幕に、弥助をはじめとする他の三ツ者たちは呆れた表情を浮かべる。前々からだが、於須恵の上様至上主義はあの暗殺未遂以来、ますます拍車がかかったようだ。今にも苦無を繁蔵の首に突き立ててくれようと言わんばかりの彼女を、なんとか引きはがす。

「落ち着かぬか。殺すのはいつでもできる。今は泥を吐かせることこそが先決」
「こんなぬるい責め苦など、誰が堪えるものか」

 荒い息を吐きつつも、繁蔵は口元を皮肉気に歪めた。過剰反応した於須恵が殺してやる! と喚きつつ懐から短刀を取り出す。

「やめぬか、於須恵」

 三四郎が素早く、於須恵の手首を手刀で打つ。痺れが走り、短刀が地を滑る。

「こんなところで油を売る暇があるなら、上杉の様子でも探って参れ。弥助も一緒に行くように」

 弥助と共にという台詞に於須恵は一瞬だけ不満を顔に刷いたが、三四郎の方が三ツ者としての格が上になるので、しぶしぶ頷いた。弥助は顔には出さぬが、喜びでいっぱいである。
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