第12話
文字数 1,680文字
さすがに敵の本拠地だけあって、三ツ者たちの警戒が厳しい。昼夜を問わず山中の奥深くにまで踏み入り、怪しい者がいないか嗅ぎまわっている。佐之介も六右衛門とともに幾度か山中で誰何を受けたが、なんとか切り抜けた。六右衛門のことは三ツ者の間でも話題になっているようで、中にはたまに手伝いに来ている者もいたようだ。
「これは亡き末の妹の子で、佐之介と申す者。わしも老いてきたので、心配になって手伝いに来てくれたのじゃ」
「伯父がいつも、お世話になっているそうで」
いかにも実直な青年になりきった佐之介は、伯父を手伝ってくれる樵夫に化けた三ツ者たちに丁重に頭を下げた。無論、内心では舌を出しているが。佐之介の身辺を探られても良いように、偽の妹の夫が相模の国にいる。この男も勿論、上杉の軒猿のひとりで六右衛門と同様に他国に住み着き、忍び宿の番人をしている。三ツ者はさっそく相模の国に人を走らせ佐之介の背後を洗ったが、不審な点が出るはずもない。最初は警戒されたが、ふた月も経つ頃には、六右衛門の周囲は平穏を取り戻した。変わり者扱いの六右衛門だが、やはり人の情というものがあったと麓の村でも評判となり、二人は閉口した。
「ようやく、愁眉を開くことができそうだ」
六右衛門も安堵の表情で鉈の手入れをしつつ、苦無の刃を研いでいる。佐之介が使う道具の手入れを一手に引き受け、不寝番まで買って出てくれている。交代で休もうと佐之介が申し出ても、頑として譲らない。
「わしはな、嬉しいのじゃよ」
警戒が解かれたとはいえ油断はできない。暗闇の中、修行で鍛え抜かれた眼力を駆使して二人は、唇の動きを読みあって会話をする。
「この歳になって、再び大仕事に携われることにな。若いころ駿河守さまに請われて、はぐれ忍びになった。信玄の父、信虎の身辺を探り首を狙ったこともある」
仕留めそこなって受けた傷がこれだと、左肩に残る矢傷と火傷の痕を見せてくれた。
「信虎が建てた居館が、あの躑躅ヶ崎居館じゃ。伊那谷に土着していた忍びを取り込み、一見ただの居館に見えて、堅牢な忍び返しが施されている」
信玄の代になってから更に手が加えられ、堀水を床下に引き入れ流れがわずかに変わっただけで、侵入者を察知できるようにした。
「忍びわざに精通しておりますな、信玄という大名 は」
「うむ。まことに恐ろしき男よ。武田家を継いで早々に、忍びがもたらす情報の重要性に気付き、三ツ者を編成し諸方に放ったと聞く。今ではほぼ全ての国に、三ツ者の目が光っているらしい」
上杉家にも潜り込まれているが、密かに定満の命を受けた軒猿たちが、人知れず暗闘し情報漏洩を防いでいる。
「この辺りの警戒の目は緩んだとはいえ、探索にはまだまだ厳しい。危ないと思ったら即、逃げよ」
六右衛門ほどの老獪な忍びが、真剣な目をして念を押すのだ。武田の三ツ者という間諜網が、どれほど恐ろしい存在かうかがえる。何よりも佐之介は、面が割れてしまった。どれほど慎重になっても足りぬほどだ。
「いざとなれば、わしも出張って背後を守ろう」
二人忍びはいざという時に片方を犠牲にして逃げ果せる半面、ひとりではないという安心感から油断を生じさせる。だから六右衛門も、二人忍びは最後の手段という意味合いで言うのだ。
「俺は駿河守さまから、山本勘助の軍策を探り取ってほしいといわれている。何とかあの居館に、潜り込むことはできないか」
「この地に住み着いて三十余年。いろいろと手を尽くしてきたが、あれほど見事な忍び返しがある居館は、初めてじゃ。」
まるでお手上げと言わんばかり。せめてもう一人か二人ほどの手があれば、いかようにも策が打てるものをと、六右衛門は歯噛みした。
(繁蔵どのが、ここに居てくれたらな)
佐之介はふと、海津城の図面を取りに戻った兄弟弟子の存在に思いを馳せ、小さく息を吐いた。街道で判れて既に、半月が経過している。無事に図面を取り戻せたのか、その情報すら佐之介には届かない。
「とにかく今まで通り、樵夫の仕事をしながら探索するしかあるまい」
六右衛門の言葉に、頷くことしかできなかった。
「これは亡き末の妹の子で、佐之介と申す者。わしも老いてきたので、心配になって手伝いに来てくれたのじゃ」
「伯父がいつも、お世話になっているそうで」
いかにも実直な青年になりきった佐之介は、伯父を手伝ってくれる樵夫に化けた三ツ者たちに丁重に頭を下げた。無論、内心では舌を出しているが。佐之介の身辺を探られても良いように、偽の妹の夫が相模の国にいる。この男も勿論、上杉の軒猿のひとりで六右衛門と同様に他国に住み着き、忍び宿の番人をしている。三ツ者はさっそく相模の国に人を走らせ佐之介の背後を洗ったが、不審な点が出るはずもない。最初は警戒されたが、ふた月も経つ頃には、六右衛門の周囲は平穏を取り戻した。変わり者扱いの六右衛門だが、やはり人の情というものがあったと麓の村でも評判となり、二人は閉口した。
「ようやく、愁眉を開くことができそうだ」
六右衛門も安堵の表情で鉈の手入れをしつつ、苦無の刃を研いでいる。佐之介が使う道具の手入れを一手に引き受け、不寝番まで買って出てくれている。交代で休もうと佐之介が申し出ても、頑として譲らない。
「わしはな、嬉しいのじゃよ」
警戒が解かれたとはいえ油断はできない。暗闇の中、修行で鍛え抜かれた眼力を駆使して二人は、唇の動きを読みあって会話をする。
「この歳になって、再び大仕事に携われることにな。若いころ駿河守さまに請われて、はぐれ忍びになった。信玄の父、信虎の身辺を探り首を狙ったこともある」
仕留めそこなって受けた傷がこれだと、左肩に残る矢傷と火傷の痕を見せてくれた。
「信虎が建てた居館が、あの躑躅ヶ崎居館じゃ。伊那谷に土着していた忍びを取り込み、一見ただの居館に見えて、堅牢な忍び返しが施されている」
信玄の代になってから更に手が加えられ、堀水を床下に引き入れ流れがわずかに変わっただけで、侵入者を察知できるようにした。
「忍びわざに精通しておりますな、信玄という
「うむ。まことに恐ろしき男よ。武田家を継いで早々に、忍びがもたらす情報の重要性に気付き、三ツ者を編成し諸方に放ったと聞く。今ではほぼ全ての国に、三ツ者の目が光っているらしい」
上杉家にも潜り込まれているが、密かに定満の命を受けた軒猿たちが、人知れず暗闘し情報漏洩を防いでいる。
「この辺りの警戒の目は緩んだとはいえ、探索にはまだまだ厳しい。危ないと思ったら即、逃げよ」
六右衛門ほどの老獪な忍びが、真剣な目をして念を押すのだ。武田の三ツ者という間諜網が、どれほど恐ろしい存在かうかがえる。何よりも佐之介は、面が割れてしまった。どれほど慎重になっても足りぬほどだ。
「いざとなれば、わしも出張って背後を守ろう」
二人忍びはいざという時に片方を犠牲にして逃げ果せる半面、ひとりではないという安心感から油断を生じさせる。だから六右衛門も、二人忍びは最後の手段という意味合いで言うのだ。
「俺は駿河守さまから、山本勘助の軍策を探り取ってほしいといわれている。何とかあの居館に、潜り込むことはできないか」
「この地に住み着いて三十余年。いろいろと手を尽くしてきたが、あれほど見事な忍び返しがある居館は、初めてじゃ。」
まるでお手上げと言わんばかり。せめてもう一人か二人ほどの手があれば、いかようにも策が打てるものをと、六右衛門は歯噛みした。
(繁蔵どのが、ここに居てくれたらな)
佐之介はふと、海津城の図面を取りに戻った兄弟弟子の存在に思いを馳せ、小さく息を吐いた。街道で判れて既に、半月が経過している。無事に図面を取り戻せたのか、その情報すら佐之介には届かない。
「とにかく今まで通り、樵夫の仕事をしながら探索するしかあるまい」
六右衛門の言葉に、頷くことしかできなかった。