第2話
文字数 1,222文字
生い茂る低い木や草をかき分け、獣道を行けばやがて樵夫小屋があった。これこそが、上杉の軒猿(忍び)たちが使用する忍び宿だ。普段は樵夫として暮らす六十過ぎの老爺、孫兵衛 が管理するその宿は、いまだに正体を露見されていない。
「孫どの、繁蔵 だ」
囁くような声音であったが十年ほど前まで第一線で活動していた孫兵衛は、とうの昔に小屋に近づく者の気配を察していた。繁蔵の左後方から浮き出るように姿を現すと、無事じゃったかと労いの声をかけた。孫兵衛の存在を察知できなかった繁蔵は、思わず目を瞠り小さく首を振った。
「俺は、まだまだ未熟者だな」
「ほっほっほ。自覚があるだけ、伸びしろがある証拠じゃわい。して繁蔵よ、首尾は?」
「うむ。多大な犠牲を払ったが、海津城の見取り図はできあがった。しかし三ツ者に見つかってな。栃の木の中に隠してきた」
それが精一杯だったと、繁蔵は口惜しそうに唇をかむ。孫兵衛は何度も頷くと、毛が一本もなくなった己の頭をつるりと撫で上げた。
「さようか、まだ敵中にあるも同然か。しかし、同じものを描くことはできるな?」
無論だと繁蔵は頷く。忍びにとって絵図面を一度見ただけで覚えることは、何よりも大事なこと。寸分違わずとまではいかなくとも、おおよその図面は頭にたたき込んである。
「上々。お屋形さまたちは、北条を攻めあぐねておる。連絡 役を務める佐之介 が申すには、武田が越中で一向一揆を先導しおった。お屋形さまも、北条のしぶとい籠城と兵糧の不足に悩まされてな。それにお味方でも、撤兵を主張される方々もおる。あろうことか、武蔵松山城の城主・上田どのが離反してな」
「上田どのはもとは北条の家臣。いちど裏切り癖がつくと二度目は、何のためらいもないのだな」
繁蔵は皮肉気に口元を歪めたが、孫兵衛は存外に表情が硬い。
「上田どのが離反したことによって、ますます撤兵の声が高まったそうじゃ。いまごろお屋形は、上田さまを討つために、関東を引き払っておろう」
「なに」
「どの身形で陣中へ駆け込む。足軽の拵えもあるが」
「見取り図が気になる故、おれは海津城に戻る。後事は佐之介に」
「あやつなら今頃、こちらを目指して駆け戻っているじゃろう。うまくすれば、日が暮れる前には合流できよう」
繁蔵は連尺商人の出で立ちになると、孫兵衛の先達で無事に街道へ出た。佐之介は繁蔵の兄弟弟子で、繁蔵ほどではないが身が軽く猿飛び術を得手としている。繁蔵より七つ下の二十六歳で、軒猿として脂が乗り始めた頃だ。
背負いかごの中に忍び道具を入れ、念のために、木から木へ得意の猿飛び術で移動する。佐之介と接触したときに三ツ者と遭遇しても、見つかる可能性を低くするためだ。その場合には佐之介は斬られるが、忍びとはそういったことは承知の上だ。
(佐之介と会うのも、三月(みつき)ぶりじゃな)
背負いかごの存在などものともせずに、繁蔵は木々をほとんど揺らすことなく、移り渡る。それはまさしく、猿のごとくだった。
「孫どの、
囁くような声音であったが十年ほど前まで第一線で活動していた孫兵衛は、とうの昔に小屋に近づく者の気配を察していた。繁蔵の左後方から浮き出るように姿を現すと、無事じゃったかと労いの声をかけた。孫兵衛の存在を察知できなかった繁蔵は、思わず目を瞠り小さく首を振った。
「俺は、まだまだ未熟者だな」
「ほっほっほ。自覚があるだけ、伸びしろがある証拠じゃわい。して繁蔵よ、首尾は?」
「うむ。多大な犠牲を払ったが、海津城の見取り図はできあがった。しかし三ツ者に見つかってな。栃の木の中に隠してきた」
それが精一杯だったと、繁蔵は口惜しそうに唇をかむ。孫兵衛は何度も頷くと、毛が一本もなくなった己の頭をつるりと撫で上げた。
「さようか、まだ敵中にあるも同然か。しかし、同じものを描くことはできるな?」
無論だと繁蔵は頷く。忍びにとって絵図面を一度見ただけで覚えることは、何よりも大事なこと。寸分違わずとまではいかなくとも、おおよその図面は頭にたたき込んである。
「上々。お屋形さまたちは、北条を攻めあぐねておる。
「上田どのはもとは北条の家臣。いちど裏切り癖がつくと二度目は、何のためらいもないのだな」
繁蔵は皮肉気に口元を歪めたが、孫兵衛は存外に表情が硬い。
「上田どのが離反したことによって、ますます撤兵の声が高まったそうじゃ。いまごろお屋形は、上田さまを討つために、関東を引き払っておろう」
「なに」
「どの身形で陣中へ駆け込む。足軽の拵えもあるが」
「見取り図が気になる故、おれは海津城に戻る。後事は佐之介に」
「あやつなら今頃、こちらを目指して駆け戻っているじゃろう。うまくすれば、日が暮れる前には合流できよう」
繁蔵は連尺商人の出で立ちになると、孫兵衛の先達で無事に街道へ出た。佐之介は繁蔵の兄弟弟子で、繁蔵ほどではないが身が軽く猿飛び術を得手としている。繁蔵より七つ下の二十六歳で、軒猿として脂が乗り始めた頃だ。
背負いかごの中に忍び道具を入れ、念のために、木から木へ得意の猿飛び術で移動する。佐之介と接触したときに三ツ者と遭遇しても、見つかる可能性を低くするためだ。その場合には佐之介は斬られるが、忍びとはそういったことは承知の上だ。
(佐之介と会うのも、三月(みつき)ぶりじゃな)
背負いかごの存在などものともせずに、繁蔵は木々をほとんど揺らすことなく、移り渡る。それはまさしく、猿のごとくだった。