第3話

文字数 1,328文字

 佐久甲州街道を信濃に向けて歩を進める虚無僧は、ぎらぎらと照りつける水無月(現在の七月頃)の陽射しを物ともせず、ただ静かに尺八を吹いていた。夏衣(なつぎぬ)が風で揺らぎ、菅笠のために顔は判らぬが身体つきから察するに、まだ若そうである。

 平沢峠からは八ヶ岳山麓や甲斐駒、甲府盆地などの雄大な眺めが望めるというのに菅笠の縁を上げようともせず、ただ黙々と信濃に向けて歩いていた。菅笠をかぶり腰には脇差し。尺八を吹きながら歩むその姿は、ただの虚無僧にしか見えない。街道には旅人がいるが、小田原で戦があると知ると慌てて手近な宿場へと急ぐ。

「悪いことは言いませんから、できるだけ小田原から離れた方がよろしいですぜ」

 中には親切にそう声をかけてお布施を渡す者もいたが、その虚無僧は軽く頷いただけで取り合わない。

 夏空に白い入道雲が目にまぶしい。菅笠越しに空を見ていた虚無僧は、夏空に目を細めた。そのときである。街道を行き交う人々の流れが、ふと途切れた。蝉の鳴き声が一段と姦しくなる中、鳶がピーヒョロロと鳴いた。空はどこまでも青く、夏雲の白さが目に眩しい。だが、どこを見渡しても鳥一羽飛んでいない。虚無僧はおもむろに尺八を口から離し、本物そっくりに鳶の鳴き真似をした。特徴のある鳴き声が峠にこだまし、街道沿いに広がる木々の一部が、風とは違う揺れ方をする。

「佐之介」
「繁蔵どのか。いかがされた」

 佐之介と呼ばれた虚無僧に扮した男は、忍び宿の番人である孫兵衛との連絡役を務めている、軒猿であった。佐之介は小用を足すかのような仕草で街道を逸れ、山の中に踏み入る。その先に繁蔵が下りてきた。佐之介はすでに菅笠を脱いでいる。

「武田が築いていた海津城がつい先日、完成した。わしはその見取り図を完成させたが、敵に見つかり置いてこねばならなかった。これより危険を承知で、取りに戻る。佐之介はこのことを、駿河守さまに伝えてくれ」
「承知」

 以上はすべて読唇術による会話であった。二人はさらに奥に分け入ると、互いの着物を交換した。佐之介は足軽の具足が入った千駄櫃を受け取ると、あっという間に連尺商人の姿に変じる。虚無僧の姿になった繁蔵は、これで堂々と甲州道を歩くことができる。

「繁蔵どの、達者で」
「佐之介も、駿河守さまによろしゅう」

 二人は街道に出ると、それぞれ目的のために動き出す。佐之介は小田原方面に向けて、走り出した。

 速い。

 街道を行く他の旅人たちには黒い影が近付いたかと思えば、あっという間に消え去り一陣の風しか感じられなかった。韋駄天が現れたとざわめきが起こるが、佐之介は途中で山の中に入る。人目につくことを避けるためと、足軽の格好に変じるためだ。彼はつい二刻(四時間)前まで、武蔵松山城を攻め落とす上杉軍の傍にいた。今ごろ武蔵松山城は、上杉の手に戻っている頃だろう。うまくすれば、引き上げてくる上杉軍に合流できる。

 この永禄四年水無月の頃。上杉軍は関東の覇者である、北条氏康が立て籠もる小田原城を包囲していた。一ヶ月に及ぶ包囲網の中、堅牢な小田原城を枕に北条軍は耐えに耐え、未だに落城の気配はなかった。その間隙を突いて、北条と同盟関係にある武田が動き、上杉の背後を脅かす工作を始めたのだった。
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