第27話

文字数 2,210文字

 相変わらず物々しい警備ではあるが、長々と睨み合うだけの日々に倦んでいた武田陣営は、わずかながら緊張が緩んでいた。三ツ者たちだけは相変わらず厳しい警護を続けているが、上杉陣営に探りを入れたりしているせいか数が少なかった。頭に叩き込んでおいた海津城の見取り図を思い出しながら、忍び装束を脱ぐと頭の上に括り付け外堀を静かに泳ぎ出す。

 松明の灯りは絶えず動き侵入者の存在を見逃すまいとしているが、心のどこかが緩んでいる今の状態は却って佐之介の進入を容易くしている。秋の気配が濃厚になりつつあるが、まだ堀の水は裸で泳いでも苦にならないぎりぎりの水温だった。極力水音を立てぬよう泳ぎ、松明の灯りが途切れた頃合いを見計らって石垣を登る。下帯一枚の姿が新月の夜に浮かび上がった。素早く茂みに身を隠し忍び装束を隠した。そのまま息を潜めて見回りが通り過ぎるのを待つ。やがて小用を催したらしい巡回の番卒が佐之介のすぐ傍で用を足し始めた。汚いと思いつつも動けない。我慢をしてようやく終わった刹那、その番卒の脾腹を強く打ち据え、気絶させると手早く衣服をはぎ取り成り済ます。

 忍び装束は頭の上にのせ、陣笠を被り何食わぬ顔で巡回をするふりをして二の丸、本丸へと移動をし、これ以上は一介の番卒が進むには怪しまれるという地点で再び茂みに隠れ、忍び装束に戻る。当たりを付けていた勝手場の扉を、しころと呼ばれる携帯用の小型のこぎりで切り破り閂を外した。音もなく勝手場内に滑り込むと、城代である高坂昌信の部屋を目指して天井の梁に飛びつく。しころを利用して天井板を切り破ると静かに屋根裏へと身を隠す。そのまま息を殺して気配を探るが、三ツ者がこちらを窺っている気配はない。罠と思わないでもなかったが、それにしては完璧に気配を消しすぎている。

(なんにせよ、いまは信玄が弾正忠の部屋に居るはず。なにか密談を聞き取るか、あわよくば)

 命じられてはいないが、命を取ることができたら大金星だ。大軍を動かして合戦をするまでもなく上杉軍の勝利となる。もっとも、正々堂々と勝負をすることにこだわる総大将の政虎が、暗殺による勝利を喜ぶとは思えぬが、それでも佐之介は一縷の望みをかけて昌信の部屋へと這い進んでいく。なにやら下が騒がしくなってきた。どうやら今から軍評定が開かれるらしく、佐之介は内心で己の幸運を喜びながら、物音に紛れて危なげなく部屋の天井裏に潜むことに成功した。

「みな揃ったな。このまま睨み合いが続けば士気は下がる一方だ。なにより雪が降る前に、けりを付けたいと思う。そこで問う。上杉を一気に叩き潰す策はなにかないか? 皆の意見を聞きたい」

 信玄の決意が込められた瞳に、誰もが声を失った。みな睨み合いが長引く中、あれこれと策を巡らせてはみたものの、あの強大な上杉相手では失敗しそうな予感がして、この席でも言い出せない。かくいう信玄も、過去三度も戦ってきた相手だけに迂闊な策は却ってこちらの不利になると判断して、らしからぬ長い睨み合いに身を任せていたのだ。

 車座の中央にこの辺りの地図が広げられ、みなが難しい顔をする中で不意に、山本勘助がよろしいかと声をあげた。皆の視線が向けられ、勘助は目顔で信玄に発言しても良いか問いかけた後に、おもむろに扇子で妻女山を指した。

「我が策をお聞きくださいませ。上杉本陣はこの妻女山にあり。ここへ我が軍勢から別働隊を仕掛け、慌てふためき下山した上杉軍を、八幡原にて仕留めるがよろしいかと存じます。啄木鳥が幹をつつき、慌てた虫が移動したところを啄む様子を模したこの戦法を、啄木鳥戦法とそれがしは名付けました」

 信玄をはじめとする諸将は、地図の上を滑らかに動く扇子を目で追いながら、脳裏では作戦が有効か否かを思い描いた。みな、自身が考えていたどの策よりも、有効ではないかと思い至った。馬場信房も勘助と同じく挟撃の策を思い浮かべてはいたが、それは鉄砲でも下から撃って威嚇攻撃し、上杉本陣を山から引きずり下ろし、広い八幡原で挟み撃ちという前提であった。勘助のように軍勢をもって、妻女山を攻めるという考えに及ばなかった己の不明さを恥じた。なので真っ先に勘助の策に、賛成の意を唱えた。

「軍師どのの策に、それがしは異存はございませぬ。愛女山の尾根は細く、大軍を横に広げにくい。まこと理に叶った策かと」
「馬場どのの申す通りですな。拙者もお二方の意見に賛同いたす」

 海津城城代の高坂弾正忠昌信も発言したため、場の空気は一気にこの啄木鳥戦法を支持するものに染まった。それを敏感に感じ取った、信玄の腹も決まった。

「よかろう、では妻女山へ向かう別働隊の選別を行う」

 妻女山を襲撃する十隊が決した。高坂弾正忠昌信、飯富(おぶ)虎昌、馬場信房、小山田昌行、甘利昌忠、真田幸隆、相木市部衛、小山田矢三郎、芦田下野守、小幡尾張守らがそれである。本隊である信玄の周囲は嫡男の太郎義信、実弟の武田信繁、山本勘助など身内と旗本集のみという、いささか手薄ともとれる陣営であった。

「よし、決行は明後日の夜中とする。みな、そのときに備えておくように」
「応!」

 やっとこの不毛な睨み合いが終わる。そして今度こそあの上杉めの首を挙げてみせると、諸将の士気は一気に上がった。意気揚々と部屋を引き上げていく諸将の足音に紛れて、佐之介は充分に注意しながら来たときとは別の場所を通って、勝手場へと向かう。
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