第32話

文字数 2,135文字

 そして辰の刻(午前八時頃)。濃霧に覆われた八幡原にて、鶴翼の陣を敷いた信玄は前方になにやら物音を聞きつけ、三ツ者たちを放った。戻ってきた忍びが、興奮した面持ちで信玄の前に現れた。

「申し上げます。上杉が、上杉軍が目の間に居ります」
「なんと! ふふふ、政虎めこちらの策を見抜きおったか」
「上様、拙者の不徳のいたすところにございます」

 隊の指揮を側近に任せ信玄の傍に付き従っている山本勘助が、申し訳なさそうに身を縮めて謝罪した。

(さすがは上杉。いや見抜いたのは、宇佐美駿河守か? いずれにせよ、我が策を気取られたは不覚)

 勘助は歯噛みして悔しがったが、相手はすでに布陣している。眼前の敵に集中するしかない。やがてあれほど濃かった霧が晴れていき、両陣営の全貌が明らかになっていく。

「先陣の誉れは我にあり、続けい!」

 こう雄叫びを上げて、上杉勢から柿崎隊が真っ先に切り込みを駆けた。未だ完全に陣容が整わない武田軍は、柿崎隊に一番近い位置に布陣していた諸角隊が応戦した。

「蹴散らせ、武田は数が揃っていない。今を逃せば生臭坊主の首は落とせぬぞ!」

 柿崎景家が、手勢に向けて檄を飛ばす。武田陣営からしてみたら、妻女山にいるはずの上杉が眼前にいたために慌てふためき、完全に防戦一方となってしまった。歴戦の猛者揃いである諸角隊も、こうも苛烈に攻め込まれてはたまったものではない。

「我らが崩されては、上様の御身に危険が及ぶ。押し返せ」

 押し合いへし合い、芋の子を洗うような大混戦が、やがて八幡原のあちこちで繰り広げられるようになった。しかし武田勢は全軍の約半数を妻女山別働隊として割いたため、信玄の周囲を護るのは、ほぼ旗本衆と武田一門となっている。信玄の実弟であり影武者も務めるほど信頼の厚い、典厩(左馬頭)信繁が自軍を率いて出陣した。

「上様、この策が破られた責任は、拙者が取ります。御免」

 そう言い置いて、隻眼の軍師・山本勘助も自軍に戻ると乱戦の中へ突っ込んでいった。

「父上、どうかわたくしめにも出陣の許可を。叔父上や軍師どのが戦っているのに、わたくしめが後詰めとは納得いきません」

 嫡男である太郎義信が父に直訴しに来るも、信玄は頑として太郎義信の出陣を認めなかった。嫡男の武勇は武田家の家督を継ぐに相応しいと家臣一同に言わしめているほどだ。だが、信玄は万が一にも上杉の猛攻に押された場合、親子揃って首を取られることを恐れた。

「聞け義信。我ら二人が討たれてはならぬ。そなたは別働隊が戻るまで、この父の傍を離れてはならぬ」
「しかし父上」
「そなたは、この武田家を継ぐ大事な躯。もう少し、今少し武田家を盤石なものにしてから譲りたい。堪えよ」
「父上」

 信玄が己にかけている期待が大きいことは、常日頃から判っている。だからこそ、太郎義信は父を助けるために出陣し、己の力量を見せつけたかった。だが父は大事な跡取りを失うわけにはいかぬと押しとどめる。

「妻女山へ向かった別働隊が、合流するまでの辛抱ぞ。別働隊が背後から挟撃態勢を整えるまで、何としても現存勢力で持ちこたえよ」

 使い番に扮した三ツ者たちが前線で戦う諸将たちに、この信玄の言葉を伝えに走り去っていく。
 上杉軍の波状攻撃は止むことを知らない。銃声と軍馬の嘶き、(つわもの)たちの怒号が八幡原に響き、千曲川は血と死体で埋め尽くされていく。敵と味方の屍を踏み越え槍や太刀を振るい、死にものぐるいで眼前の敵を屠る。遠方から矢が立て続けに矢衾(やぶすま)に飛び、為す術もなく倒れていった。

 信玄にとって、じりじりと焦れるような時間だけが過ぎていく。

(まだか、まだ別働隊は戻らぬのか)

 ただそれだけが脳裏を占め、遠目にも判る自軍の押され具合を眺めていた。

「も、申し上げます。典厩様、討ち死ににございます」

 その一報が信玄の元に届いたとき、頭を岩で殴られたかのような衝撃を覚えた。手にしていた軍配を、思わず落としかけたほどだ。目の前が一瞬真っ暗になり、手が震えたことを自覚した。

「まことか。叔父上が、典厩どのが討たれたと?」

 未だ傍を離れていなかった、太郎義信の怒号で信玄は現実に引き戻された。三ツ者の報告だったが、やがて信繁隊の一人が正式に討ち死にの報告をもたらした。緋色の僧衣をまとった信玄は、やおら床几から立ち上がると妻女山の方角を見た。未だに別働隊合流の報告はない。

「父上、お願いにございます。叔父上の仇をわたくしめに」
「ならぬ。典厩が討たれた以上、尚のことそなたは動いてはならぬ。よいか、これは命令ぞ」
「父上、叔父上が討たれたのですぞ。指を咥えて見ていろと?」
(こら)えよ。別働隊が戻るまで、勝手な真似は一切許さぬ」

 静かながらも反駁を許さぬ鋭さを含んだ父の声音に、太郎義信は背中に冷たいものが流れるのを感じた。ふと信玄の手元を見ると、軍配が細かく震えている。左手も膝の上で固く握りしめられており、血色が悪い。

「父上」

 何か言いかけたが結局、太郎義信は何も言えなかった。右腕とも頼む実弟が討ち取られたのだ、自分が覚える以上の憤慨と喪失感に心を苛まれているのだとようやく気付いた。彼も次期武田家の当主として、じっと戦況を見守る。最強の兵馬と世に謳われる、家臣団を信じて。
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