第37話

文字数 2,836文字

 一方、船上では湖面からの心地よい夜風に身を任せている政景が、上機嫌で夜空を振り仰いでいた。

「心地よい風ですな、駿河守どの。これ彦五郎、もそっと静かに漕がぬか。酒でなく船酔いもするぞ」
「申し訳ございませぬ」

 むろん冗談であるが彦五郎は生真面目に受け取ると、尚のこと慎重に漕ぎ続ける。小舟はゆっくりと中央部に差し掛かっていた。湖面からは判らないが、野尻湖はすり鉢状になっているので中央部が一番底が深い。

「酔いも醒めてきましたかな?」

 小座敷で飲んでいた頃よりは幾分醒めたが、それでも酒気は政景の全身から俊敏な動きと判断力を奪い取っていた。政景は機嫌良く
「船上で月見酒というのも、また一興かも知れませんな」
 と、酔狂なことを言っている。

 櫓を漕ぎながら、彦五郎は苦笑いを堪えるのに必死だ。もっとも二人に背を向けているので、彼の表情を見咎められることはなかったが。

「お屋形さまのことじゃが」

 湖のちょうど真ん中頃に差し掛かったと判断した定満は、不意に真面目な声音になった。空気が変わったことを察した政景も、軽く咳払いをすると向き合い直した。狭い小舟の中で、二人の膝は触れ合いそうなほどに近い。これで声を潜めれば、彦五郎に聞かれる心配はない。内密の話が始まることを察して、彦五郎も漕ぐことに意識を集中する。

「もそっと近う。お耳を拝借しとう存じます」

 彦五郎の耳を意識してか、ことさら近くに寄るよう促す。素直に従った政景は、酒臭い息を吐きながら顔を寄せ言葉を待った。

「お屋形さまには実子がおらぬ。貴殿は上杉家の跡継ぎを、どうお考えですかな?」

 上杉家の重鎮である宇佐美定満が、未だに妻帯しない主君の後継者問題を口にしたことに、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。胸の内に秘めている、次男を後継者に据えてやろうという暗い野望を、この老軍師に見抜かれたのではないかと冷や汗が出る。

「お、お屋形さまはまだお若い。これから妻帯されることもあるでしょう」

 声がうわずっていないだろうか、顔は引きつっていないだろうかと焦りつつ、当たり障りのない返事をする。

「お屋形さまはご存じの通り、仏門に深く帰依されておる。敢えて女人を遠ざけている節もあり、このままではお家の存続に関わる」
「拙者にどうしろとおっしゃるのかな? 駿河守どのは」

 真意の見えない定満の言葉が、妙に政景の心を抉る。胸に秘めた暗い野望を、この老人によって暴かれるのではないかという不安が、政景から冷静さと観察眼を奪い去っていた。おもむろに定満は、両手を袂に入れた。膝はおろか手も、ややもすれば触れ合いそうなほどに近いため、それを避けるためだろうと政景は解釈した。

「貴殿には死んでいただくのが、上杉家の為じゃ」

 言うなり定満は隠し持っていた抜き身の短刀を取り出し、政景の左胸に突き立てようと動いた。しかし、酔っていたとはいえ一瞬にして湧き上がった殺気を察知し、政景はわずかに躯を開いた。それが故に心臓を狙った刃は的を逸れ、政景の左肩に食い込んだ。

「な、なにをするか駿河守どの」

 うろたえつつも後ろに退こうとする政景の後ろ首を掴み、更に刃を押し込んだ。

「彦五郎、彦五郎!」

 後ろが騒がしいことに気付いた彦五郎が振り向くと、二人が取っ組み合っている姿が目に入った。

「駿河守さま、なにをされますか?」

 櫓を置き政景を助けるべく動きかけたが、それよりも早く黒い影が水中から飛び出してきた。その影は小舟の縁に手をつくと、素速く乗り込んできた。下帯一枚の、逞しい体つきの若者――佐之介の手が彦五郎の口を塞いだ。そのまま後ろに引き倒し、無防備に晒された彦五郎の喉を掻き切った。そのまま湖に投げ捨てると、定満の加勢をしようと一歩を踏み出す。

「控えよ、佐之介」

 鋭い氷のような定満の声に、今まさに飛びかからんとしていた佐之介の躯が止まった。政景は何とか逃れようともがいているが、酔った躯では思うように力が入らない。三十八歳の政景が、七十過ぎの定満の膂力に敵わない。普段ならば振り払えるが、今の状態ではがっちりと抱きすくめられた形の身を、自分でも持て余している。

「先ほど申したであろう。そなたには死んでいただく方が、上杉家のためであると」
「な、何ゆえ拙者が?」
「とぼけるでない。お屋形さまの跡を継ぐに相応しい男子は、綾御前さまの血を受け継ぐ喜平次さまのみ。貴殿は喜平次さまの後見人となり、上杉家を牛耳るつもりであろう!」

 己の野望を的確に言い当てられ、政景の全身から一気に力が抜けた。その隙を見逃さなかった定満は、まだ金縛りに遭ったまま動けない佐之介に向けて言い放った。

「儂はここまでじゃ。儂に仕えてくれて、礼を言う。そなたは生きよ、さらばじゃ」

 言うなり定満たちの身体が小舟から消えた。派手な水音とともに、水柱が立つ。そのしぶきを浴びて、ようやく佐之介の意識が自由を得た。

「と……殿? 宇佐美の殿!」

 水紋は大きく広がっているが、人間が浮かび上がってくる気配はない。鍛えられた忍びの目でも、水中に消えた二人の姿を捉えることはできなかった。すぐさま定満を救出すべく湖に飛び込む。水練が得意な佐之介であるが、主君の行動に動揺して普段のように上手く潜れない。気ばかり急いて、身体がついていかない。すぐに呼吸が苦しくなり、何度も息を吸うために湖面から顔を出した。

 気泡は下からまだ上がってくるが、潜り直すたびに数が少なくなっていた。

(まだ息がある。間に合ってくれ!)

 謀反を企む長尾政景はともかく、主君である定満は何としても救いたいと、気泡を頼りに潜る。だが野尻湖は存外に深く、いかな佐之介といえど息が続かず救出を困難にした。夜であることも不利に働いている。

(お待ちくださいませ、宇佐美の殿。俺はあなた様にのみ仕える忍び。あのような殺生なお言葉、俺は受け入れられませぬ)

 佐之介の目は涙に濡れ尽くしている。幾度目の潜水かもう判らぬが、いつしか気泡が消えていることに気付いた。どんなに目をこらしても、闇が広がるのみである。それは大きく口を開け、生者である佐之介の躯を飲み込まんばかりに待ち構える、冥土の入り口に見えた。

「殿、殿。宇佐美の殿!」

 何度叫んでも、水中では不明瞭な音にしかならず、肺腑からの空気を無駄に垂れ流すだけである。沈んでしまった二人は、浮かび上がってくる気配すらない。政景は肩口からの出血もある上に泥酔しているので、放っておいても助からない。それでも万が一を考え、定満は一緒に入水した。上杉家の将来を慮り、反逆の芽を摘み取るために。

 いつまでも定満たちが戻ってこないこと、派手な水音が屋敷の人間に届いていたこともあって、松明の明かりがいくつも見え始めた。ここで見つかると厄介なことになると判断し、佐之介は静かに湖岸を目指して泳ぎ始める。幸いにも着物を隠した湖岸に人はまだ現れておらず、佐之介は大急ぎで着物を着ると一目散にその場を逃げ出した。
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