最終話

文字数 1,440文字

 結局、勝頼は積極的に介入しなかった。景勝と先に和睦し、のちに景虎とも和睦した勝頼は、ほとんど味方を出血させることなく甲斐国へ戻った。このことが原因で、再び北条家との関係が悪化したが、肝心の上杉家内乱はまだ決着がつかなかった。

 跡目争いに終止符が打たれたのは、天正七年三月二十四日のことであった。追い詰められた景虎は、義兄である北条氏政を頼って関東へ逃げようと試みたが敵わず、自害した。正室も弟である景勝の降伏勧告を頑なに拒み、夫に先んじて自害していた。娘と婿を喪った仙洞院は戦後、景勝の庇護下に入り、亡き夫と上田長尾一族の冥福を祈る静かな暮らしを受け入れた。

 それから、三年の月日が流れた天正十年の初冬。約半年前の三月に、あれほど栄華を誇った武田家が織田・徳川連合軍の前に滅び去った。かつて御館の乱の最中に、枕頭で景勝に攻め入らぬよう暗示をかけた勝頼も、この世に亡い。

 十九年前、武田と上杉家が川中島で戦を繰り返していた頃は二十六歳だった佐之介も、四十五歳になっていた。御館の乱で勝頼の宿営から逃げる際に負った太股の傷は深く、彼はあれから忍びの第一線を退いた。

 定満の死より、三ヶ月後に死んだ六右衛門が守っていたあの忍び小屋を、今は佐之介が管理している。六右衛門と違い、ちゃんと頭領も承知の上である。武田家の脅威はなくなったが、それでもまだ北条家は上杉家と敵対している。

 亡き六右衛門の遺骸は、麓の村人によって丁重に葬られてあった。忍び宿の番人として戻ってきた佐之介の顔を見知っていた者たちは、はじめは伯父の最期を看取らなかった薄情な甥と責め立てたが、彼の左足が不具になっていることを知ると、一転して同情的になり身の回りの世話を焼こうとした。特に六右衛門の世話を焼いていたお菊は、いまだ独り身の佐之介に自分の娘を嫁にどうかと話を持ってきた。忍び小屋の番人という立場から妻帯するわけにもいかず、佐之介は丁重に謝絶した。

「六右衛門さんといい佐之介さんといい、本当に女手がなくて大丈夫なのかい?」
「ありがとうございます。ですが俺は、このとおり不具の身。かえって女房に世話をかけますから」

 忍び働きには支障は出るが、日常生活には何ら問題はない。たまに訪れる村民の前では弱々しく振る舞うが、いざとなれば己の身を守るくらいは容易くできる。

 武田家が滅亡してから九ヶ月後、すっかり冬の風が当たり前になってきたこの日。佐之介は仕込み杖をついて天目山の麓に来た。勝頼をはじめとする武田衆が最期を遂げた天目山の麓に来た佐之介は、修験者姿だった。

 わずかな供回りと、実家である北条家に帰らなかった北条どのと、先妻が産んだ嫡男と共に勝頼は自刃した。彼らの血を吸った大地は今もなお、何事もなかったかのように季節ごとに花を咲かせている。そして、勝頼たちの御霊を慰めるかのように、あちこちで残菊が風に揺れていた。脳裏に、あの夜の勝頼の姿を思い浮かべ、そっと瞑目した。

「時は流れども、野辺に咲く菊花は毎年変わらぬ。人だけが飽きもせずにただ、戦を繰り返す。愚かなことよ」

 小さな呟きは、風に乗ってどこかへ運ばれていく。

(俺も、この野辺の残菊のごとく誰にも気付かれずにこれからの上杉家を見守っていこう。それが宇佐美の殿から託された、願いなのだから)

 わずかに痛む左足を気にしつつ歩き出す。彼は一切、後ろを振り向かなかった。


       了
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