第13話

文字数 896文字

 その頃。

 ひっそりと洞の中に身を潜め、繁蔵は地上を徘徊する三ツ者の姿を上から見張る毎日だった。彼の神経はいっときも緩むことを許されず、さすがに疲労の色が濃い。おりしも汗ばむ季節のため、いくら涼しい山中に居ても身体から汗のにおいを発してしまう。

 街道で佐之介と交換した僧衣は汗みずくになってしまい、いまは農家で無断拝借した麻の着物を身にまとっている。組み立て式の背負籠に柴木を入れ、昼間は柴刈りに来た里の者と見せかけている。堂々と川へ入り、念入りに水浴びをして体臭を消す。ついでに周囲に人の気配がないか確かめてから、僧服を洗った。

 そんなことを繰り返しているうちに、もう半月が経過した。一刻も早く海津城の絵図面を回収し、越後国へ戻りたいのだが三ツ者の警戒が厳しく、それすらもままならない。信玄の首を挙げてやろうという野望も、もちろん消えてはいない。二兎を追えば一兎も得ない。信玄暗殺か海津城の絵図面か。繁蔵はどちらの道を選択しようか迷っていた。常識的に考えれば、指令を受けた海津城の絵図面が最優先だ。だが、己の功名心も捨てがたい。

(よく考えろ。絵図面を手に入れたとて、今いるのは弾正忠だ。奴の首を挙げても大局にさほど影響はない。しかし信玄の首を挙げれば、そこで終わりだ。やはり、ここで信玄の出陣を待ち、討つべきだ)

 半月の間迷いに迷っていたが、ようやく結論を出した。味方の援護もなく、たった一人で襲撃する。失敗すれば、待っているのは死。それでも敬愛する上杉政虎のために、敵の総大将を討ち取りたかった。

(お屋形さまをおいて、他に天下に号令を下せる大名はおらぬ)

 一介の軒猿である繁蔵にすらそう思わせるだけの、天下泰平に対する政虎の情熱は、すさまじいものがあった。軒猿たちはこの偉大な総大将の心意気に打たれ、一命を賭して敵の内情を探り取ってきた。幾人もの仲間が命を落とそうとも。まだ三十になったばかりの繁蔵が、こうして危険を顧みずに信玄の首を単独で挙げようと思い極めたのも、こうした背景があった。

 佐之介と繁蔵はいま、同じ甲斐国にいながら互いの存在を知りえず、目的に向かって邁進しようとしていた。
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