第23話

文字数 2,096文字

 繁蔵の遺体を嬲ることに意識が集中していた於須恵は、己の身に危険が迫っていることに気付くのが遅れた。振り仰ぎ手にしていた苦無を投げつけようとした刹那、彼女の右肩に即効性の痺れ薬をたっぷりと塗られた苦無が食い込んでいた。思わず悲鳴をあげた於須恵の動きをさらに封じるかのように、今度は両太股に手裏剣が食い込む。

 穴に飛び込んだ佐之介は、手にしていた縄で手早く於須恵の躯を拘束し地上へと放り投げる。待ち受けていた六右衛門が於須恵の顔を踏みつけ、戦意を喪失させることに成功した。この頃にはすでに痺れ薬が効いてきたようで、於須恵の全身が細かく震えていた。辺りに人の気配がないか充分に確かめた後、六右衛門はよく手入れのされた苦無を、於須恵の眼前でちらつかせる。

「女、そなたは武田の三ツ者だな」

 佐之介の問いに、顔を反らせて無視を決め込む。六右衛門は於須恵の右肩に突き刺さったままの苦無に手をかけ、ぐりぐりとねじ込んで苦痛を与える。舌を噛み切られないように、その辺に落ちていた適度な大きさの石を於須恵に噛ませる。尋問を佐之介に任せた六右衛門は、見張りを買って出た。

「この遺体をさらに嬲ったのは、いかなる理由があってのことだ。先ほどそなたは、上様の命を狙った痴れ者と叫んだが、この者は信玄の命を狙ったのか?」

 信玄の名を出した途端、そっぽを向いていた於須恵の顔色が、怒りで紅く染め上げられた。何か言いたそう目を剥いていたので、苦無を咽喉に突きつけつつ、噛ませていた石を取り除いた。

「そうだ。こやつは畏れ多くも上様の輿を狙いおったゃ。私の、眼前でな!」

 古府中から川中島までの道中で、どうやら繁蔵は信玄の命を狙ったようだ。軒猿の本流から外れている今の佐之介は一瞬、宇佐美定満が信玄の暗殺を命じたのかと思った。しかし主君である上杉政虎は、あくまでも戦で敵の総大将の首級を挙げることにこだわる。暗殺などという卑怯な手口を、主君に内密で実行させるとは考えにくい。発覚すれば、政虎が定満を手討ちにしかねない。

(ふむ。この暗殺未遂騒動は、繁蔵どのの独断か。なんと早計なことを)

 内心で歯噛みしつつも、於須恵からは片時も目を離さない。これだけ激高しているということは、騒動の際に信玄の傍に居たのだろうと佐之介は思った。

「やはり軒猿は潜んでいたか。この男はついぞ口を割らなかったが」

 ぎろりと憎しみのこもった目が、佐之介を捉えた。ふと於須恵の凄艶な美しさに、佐之介は気付いた。すぐさまこの女を殺さねば、と理性が囁く。顔を見た自分ならばともかく、他の軒猿たちはこの艶やかさに騙されかねない。合戦前に近辺に住む領民の女たちが、酒や食べ物を差し入れに来ることがある。その中にこの女が紛れ込みでもしたらと考えただけで、佐之介の中の何かが熱く騒いだ。

 このとき己の中に芽生えた熱情の正体が何であるのか、佐之介自身にも判らなかった。怒りで輝きを増す於須恵の目から、視線を外せない。

 不意に、激しい劣情を覚えた。

 一人前の忍びとして働く佐之介は、当然ながら女の扱い方も心得ている。己の欲におぼれず、あくまでも情報を聞き出すための道具として捉えよ。決して心を動かされてはならぬと、佐之介に女体を教え込んだ女軒猿は、何度も何度もめくるめく情交の中で囁いていた。片時もその教えを忘れたことはないが、於須恵の魂すらも燃やしかねない、その瞳の奥に揺らめく炎を見つめていたら理性が揺れた。

 乱暴に於須恵の左肩と後ろ首を掴み、顔を勢いに任せて近づけようとした刹那、六右衛門の躯が穴から消え失せた。正確に言うならば、高く鞠のように跳ね上がった。一泊遅れて月明かりの中に、刃を交える二人の姿が浮かび上がる。

(もうひとりいたのか?)

 於須恵の美しさに我を忘れかけ、あまつさえ劣情を催していた佐之介は、己を恥じた。呪縛から解き放たれたように於須恵の口に石を押し込め、再び魅了されまいとその両目を左手で覆う。彼女の右肩に未だ深く食い込んでいる苦無を引き抜くと、迷いと未練を断ち切るかのように、その白い首筋から咽喉にかけて力強く薙いだ。

 頸動脈を正確に斬られた於須恵は天を仰ぎ、何か言葉にならない声を発した。必死に舌で口中の石を押し出そうとするが無理だった。完全に忍びとしての理性を取り戻した佐之介は、苦無を正確に今度は心臓に突き刺し、於須恵にとどめを刺した。

 その間にも穴の外では、戦いの気配が止むことはない。互いの刃が虚しく空を切る音は響いても、金属音が打ち合う音は最初以来聞こえてこない。ときおり地面を蹴る音と、聞き覚えのない男の声がかすかに
「於須恵どの!」
 と発しているのが聞こえるのみだった。

 この女の名は於須恵というのか、と冷静に先ほどまで己の心をかき乱した女三ツ者の死骸を見下ろす。繁蔵の骸の上に重ねるのは癪だが、見つかるのはまずい。幸い野犬どもに見つかることを恐れてか、穴はかなり深く掘られてあるために、あとひとり入れて埋め直しても問題はなさそうだ。六右衛門ならば加勢せずとも問題はないだろうが、万が一を考えて於須恵の腰から忍び刀を抜き取り構える。
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