第38話

文字数 2,035文字

 枇杷島城はいま夜中にもかかわらず、騒然とした空気に包まれている。幾人もの男たちが松明を掲げ、小舟を出している。定満や政景の名前を呼ぶ声が、夜の静寂を切り裂いていく。佐之介はその喧噪を背に、ひたすら走った。

 佐之介は甲斐国にいる、六右衛門の許を目指す。どうしたらいいのか、彼には判らなかった。いま目の前で起こった惨劇を受け入れられず、年長者の意見を聞きたかった。彼は現実から逃避したのだ。息切れと動悸が激しく、忍びにはあるまじき失態を晒している。

 国境付近まで走ってようやく、佐之介の頭が冷えてきた。乱れた呼吸を整えつつ、目についた道祖神の石碑裏に身を潜めた。辺りに響くのは夜風と、ふくろうの鳴く声のみ。人の気配は全くしない。

(宇佐美の殿、何ゆえ俺に生きよと命じましたか。殿亡き後の上杉家に、俺が仕える意味はあるのですか? 俺を卑しい忍びとしてではなく、ひとりの人間として見てくださった殿に、まだなにも報いておりません。殿、宇佐美の殿! 俺はこれからどうしたら)

 道祖神の石碑は静かに、佐之介の声なき嘆きを聞いている。

 どれほど経っただろうか。不意に人の気配を感じ取り瞬時に臨戦態勢に入ったが、身に短刀しか帯びていないことを思い出した。どうやら気配はひとつだけのようだが、こんなに接近されるまで気付かないほどに、佐之介は忍びとして機能していなかった。越後国内とはいえ、敵の忍びが入り込んでいる可能性は否定できない。短刀一振りだけでは、まともに戦うことすら難しい。

(いっそここで敵の手にかかって死ぬか? それもいいだろう、宇佐美の殿を喪った今、生きる意味などどこにあるのか)

 そんな佐之介を叱咤するような、悲しげな表情の定満が脳裏に浮かんだが、もはやどうでも良かった。あれほど会いたいと思った六右衛門のことすらも、何もかもが面倒くさくなった。臨戦態勢を解いた佐之介の躯から、急激に人の気配が漂った。

「なんだ、その腑抜けた面構えは。今のお前を見たら、駿河守さまがさぞ情けなく思うぞ」
「頭領さま」

 闇の中から滲み出るように姿を現した勘太郎は、小さく首を振りながら近づいてきた。その辺にいる領民の格好をした勘太郎は、わずかな時間で憔悴した佐之介の顔を見て、溜息を吐いた。

「駿河守さまからお前への、遺言を預かっている。聞く気はあるか?」
「殿の遺言?」
「昨夜、駿河守さまに呼び出されてな。お前にぜひ、伝えてほしいと」

 勘太郎はそう言うと、佐之介の隣に腰を下ろした。冴え冴えとした月光が、二人の姿をかすかに浮かび上がらせている。

「駿河守さまは、お前に自分の代わりに上杉家の行く末を見届けて欲しいと、おっしゃっていた」

 目を見張る佐之介を尻目に、淡々と遺言を続けていく。いわく。

『お屋形さまが御健在の内は良いが、いずれ後継者問題は抜き差しならぬものになる。誰が養子に迎えられようと、その背後にいる一族への警戒を怠らないように。政景は始末するゆえ上田長尾家は問題ないが、その他が現れたときは心して背後を探るように』
 とのことだった。

「駿河守さまは、お血筋から見ても喜平次さまがもっとも相応しいとおっしゃっていた。なにせ綾御前さまの御子だ。例え越前守どのの血を引いていようと」

 政景も長尾家の一員であるため、血統的にはなんの問題もない。だが定満は政景の野心に気付き、排除した。残された喜平次が上田長尾家の当主として一生を終えるか、輝虎の養子に迎えられるかは判らないが、後顧の憂いは先ほど絶たれた。

「こうもおっしゃっていたぞ。佐之介のことを、孫のように慈しんでおると。ゆえに何としても生き抜いて、自分の代わりに上杉家の行く末を見届けて欲しいと」

 佐之介の双眸から、再び熱いものがこみ上げてきた。流し尽くしたと思っていたそれは、後から後から湧いてきて止まらない。肩をふるわせ嗚咽する部下を一瞥し、勘太郎は静かに立ち去った。

 望月が中天から西へ大きく傾いてようやく、佐之介は動き出した。その顔には、なんの迷いも浮かんでいない。亡き主君の遺言に従って生きようと、決意した。これからも軒猿は卑しき存在と疎まれようと、定満から受けた恩顧は佐之介の財産である。夜明けと同時に枇杷島城に戻ると、蜂の巣を突いたような大騒ぎだった。定満たち三人の遺体が引き上げられ、輝虎の許へ報告の早馬が出されたばかりだった。下男小屋へ戻ると、みなが落ち着かない顔で、いつもの仕事に出ようと支度をしていた。

 誰もいなくなった小屋で、六右衛門宛てに定満たちの死の真相を記し、鳩の足に括り付けて飛ばした。

(六右衛門どのの、最期を看取ってやることはできないな。俺には越後国でやることが増えた)

 長く感じた枇杷島城での生活にその日限りで別れを告げ、春日山城にいる勘太郎の許に戻った。この先、軒猿を束ねる将が誰に替わろうとも自分は自分だと、佐之介は脳裏に定満の好々爺とした笑みを思い浮かべながら、軒猿の一員として諸国へ走る日々に戻った。
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