第39話

文字数 1,205文字

 政景と定満が野尻湖で溺死したという報せは、輝虎に強い衝撃を与えた。事実関係を探らせても、二人は酒宴を催し酔い覚ましに野尻湖へ出たという証言しか聞こえてこない。事故死という結論を下し、政景亡き後の上田長尾家は次男である喜平次がとりあえず継いだ。

 上田長尾家。政景と輝虎の姉である綾御前には二人の男子がいるが、長男は夭折していた。喜平次はまだ七歳と幼く元服前であることも鑑み、輝虎は養子として引き取り育てることにした。同時に未亡人となった姉は出家し仙洞院と名乗り、春日山城へ娘たちとともに移り夫や長男の冥福を祈る日々を送り始めた。これにより上田長尾家は、事実上断絶した。

 このまま輝虎の後継者は喜平次で決まりだと、家中の誰もが確信し始めた頃、長年敵対関係にあった北条家と、越相同盟が結ばれた。和平の証に、北条氏康の七男である三郎を人質として迎え入れた。彼の英邁さを気に入った輝虎は三郎を養子に迎え入れ、自身の幼名である景虎を贈った。

(お屋形さまは一体なにをお考えだ。よりにもよって、北条の息子に幼名を贈られるとは。その名は本来、喜平次さまに贈られるべき名だろうに)

 佐之介がそう思うほどだ。家臣団も反発を覚えたが、三郎改め景虎付きになった諸将は、輝虎と同じく景虎の英邁さに惹かれてしまった。さらに御家集の一員に加えられ、完全に身内扱いとなってしまった。

 喜平次には景勝の名が贈られ、こちらも輝虎の養子に相応しい地位と権限が与えられたが、彼はどこか他人を信用しない節があり、滅多に笑わない気難しい人間として成長していった。これは実父・政景の死が事故ではなく、定満による謀殺であるという噂を、どこからか吹き込まれたからかもしれない。

 二人の他にも養子はいたが、家臣団は景勝派と景虎派にほぼ二分され、まだ元服して間もない二人に必死に取り入るさまが、佐之介の目には奇妙にも滑稽にも映った。

 軒猿たちは、心情的にも血筋的にも北条の倅である景虎を敬遠し、景勝を推す空気が支配していた。景虎は、実家で風魔衆という忍びを飼い慣らしていたせいか忍びにも理解が深い。対する景勝は養父同様に卑しき者たちと見ていたが、勘太郎は亡き定満の遺命を守り景勝側についた。

 天正五(1577)年、出家し法名を謙信と改めていた輝虎は春日山城に帰城し、翌年の三月に大遠征を行うと布告した。この年に手取川の戦いで織田方を痛めつけた謙信は、雪解けを待って北陸方面に進出する柴田勝家を討ち滅ぼそうと、十二月に壮大な計画を皆に下知した。

 それに伴い、軒猿たちも織田家の動向を探るべく、京や岐阜へ飛ぶ。佐之介も柴田家の動向を探るべく、雪道をかきわけ越前国(福井県)にいる柴田勝家を探るべく出立した。織田家はどうやら武田家と同様に、忍びによる諜報活動を重要視しているらしく、京に近い甲賀衆や朝倉家が使用していた義経(ぎけい)流という忍び集団を駆使し、敵の忍びに備えていた。
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