第28話

文字数 1,527文字

 何かがおかしいと気付いたのは、勝手場の扉にかけてある閂を外そうと手を伸ばしたときだった。首の後ろがちりちりと灼かれるような、なんとも表現のしようのない感覚に囚われた。無意識のうちに刀に手が伸び、音を立てずに素早く引き抜いた。この勝手場の外、二の丸方面から凄まじい殺気が飛び交っている。常人では聞くことができないが、鍛えられた忍びの聴力が忍び同士の戦いの音を捕らえた。空を切る刃の音、わずかな呼吸。それらが新月の闇の中で繰り広げられている。

(俺の他にも、軒猿が来ているのか?)

 胸の内で呟きながらも、あり得ない話ではないと思い直す。なにも己ひとりだけが、宇佐美定満の密命を受けて諜報活動をしているのではないことに思い至り、寵愛を一身に受けていると思い込んでいた自分の思い上がりを恥じた。

(しかし、先刻の啄木鳥戦法を聞き取ったのは、俺だけのはず)

 盗み聞きをすることに神経を注いでいたとはいえ、第三者の気配を見逃すほど佐之介は未熟な忍びではない。城内に三ツ者の気配がほとんどなかったのは、軒猿たちを迎え撃っていたためかと合点がいった。偶然とはいえ軒猿たちが今夜海津城を探りに来なかったら、自分はいまごろ繁蔵のように捕らえられ拷問のあげく、嬲り殺しにされていたかもしれない。何にせよ此度の戦を左右する、重要な作戦を盗み聞いたのだ。仲間が囮になっている間に、無事に妻女山に戻らねばならない。

(一刻も早く、駿河守様の許に戻らねば)

 決意した佐之介は素速く閂を外すと、大急ぎで二の丸へと走り出した。外堀があるとはいえ橋は架かっている。三ツ者のふりをしながら、佐之介は見回りをしているであろう卒たちに向けて、
「上杉の曲者にござる、お出合いくだされ!」
 と大声を上げながら走った。

 佐之介の声を聞きつけた見回りたちが、一斉に駆けつけてくる気配を感じた。二の丸辺りからも武装した兵たちが吐き出され、合戦ができぬ苛立ちをぶつけるかのごとく目についた軒猿めがけて斬りかかっていく。佐之介はなおも声をあげつつ巧みに二の丸を抜け、火薬玉に火を付けた。これは爆発物ではなく、単に大きな音を出すだけの陽動用の火薬玉だ。自分と反対方向へと投げつけ、武田方の注意を存分にそらせつつ、なんとか無事に海津城からの脱出に成功した。

 山の中に入ってしまえば、あとは得意の猿飛術を行使して妻女山を目指すのみ。尼巌(あまかざり)城付近で受けた浅手深手の傷が多少痛み出すが、己のみが知っている情報に興奮し、傷などどうでも良くなった。

(ぼやぼやしていたら、啄木鳥戦法が開始されてしまう。ここで死ぬわけにはいかん)

 妻女山付近にも、三ツ者はうろついている。樹上を渡り歩く佐之介の下で、軒猿たちが激闘を繰り広げていた。居所が露見することは避けたいが、敵の数を減らすために樹上から棒手裏剣を投げ打った。後頭部に手裏剣を受けた三ツ者が叫び声を上げたため、佐之介の存在が知れたが仲間の軒猿たちが、地上にいる敵を討ち果たす。木登りをした者が佐之介に向けて鎖鎌で、戦いを挑んできた。隣の木にいる敵は分銅を投げつけ、佐之介の持つ忍び刀にそれを巻き付けることに成功した。躊躇いは一瞬、佐之介は潔く忍び刀を手放し、敵の居る木に向けて跳躍した。佐之介の刀を力尽くで奪い取ろうとしていた敵は、急に力の均衡が崩れたために後ろにのけぞり、佐之介の来襲に対応が遅れた。

 苦無を逆手に持ち、佐之介は相手の喉に突き立て、叩き斬った。生暖かい鮮血を顔に浴びながらも素速くその場を離れ、これ以上の道草はごめんとばかりに妻女山の本陣を目指す。仲間たちは佐之介を追うような仕草を見せたが、まだ三ツ者がいるかもしれないと思い直したらしく、闇夜へと再び散開した。
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